この世でもっとも嫌いなもの。
他人を踏みつけにしつつ、機嫌をとろうとする輩。
慇懃無礼とも言う。
人を利用したいなら、文才を磨け。
取り入りたいなら、プライドを捨てろ。
裸になる勇気もないくせに、相手の身ぐるみ剥ごうとする。
その浅ましさには侮蔑を覚え、なまぬるい計算高さはたまらなく退屈。
ウルフの日記、読み再開。
随所に産みの苦しみと喜びが散りばめられていて、読んでいるとウルフの脳内を散歩しているような気分でふわふわと心地よい。
日記は小説とは違って全体でひとつをなすものではないので、ぼちぼちと感想を記していこうかな。
ウルフと夫レナードの良好な関係性は、レナードの書いた日記の編集序文を読めば分かる。作家の日記を一冊の本にするという行為にあたって、これほど真摯に作家自身の正確な肖像にこだわり、かつ愛情にあふれた補完をしている文章を私は知らない。それは、ウルフ自身のみならず、彼女の作品、そして文学そのものへの愛に満ちている。こういう人物をそばにおいて創作活動を行うことができたヴァージニア・ウルフという人は、間違いなく幸運な作家だったと思う。
彼女らの関係性を記したウルフの一文に、今日行き当たった。
「アーノルド・ベネットによると夫婦の間の「日常性」がすべてをだいなしにするということだが、真実はこうである。一週間のうち四日間は自動的に行われるが、五日目に感覚のじゅずつなぎになったものが(夫と妻の間に)つくられる。それは、二人の間が自動的、習慣的であるからなおさら鋭敏になる」
本が今手元にないので覚書だけど、だいたいそういうような主旨。
深く賛同。
日常性があるからこそ、二人の間に培われる感覚の共鳴はより激しく、それが二人の間に走るときは深く強く心に刻まれる。
それは、知り合ったばかりの恋人同士の間に走る稲妻とはまったく種類が違う。偶発的というより、常に生活の奥底に流れている大元の電流に例えられる。
常に電力を供給していないと生活そのものが危ういと同時に、それなしでは二人の関係は成り立たない。日常性がそのまま、刺激に繋がる関係でなければ、共に居る価値はない。
長くいる恋人は、裸になるのを恐れる人ではない。
だから、一緒にいられる。
おそらくあの私にとってたまらなく退屈な存在も、裸になれる相手の前では、刺激的な電流になりうるのか。恋愛の不思議、パートナーの不思議、なのかもしれない。
もし長く築いた関係性のみがその人の魅力を輝かせる電流であるなら、社会でうつくしいと言われる人々は、社会と折り合いのよい人、となる。
これはある意味、正しい。
ならば、社会と折り合いがどうやらよくない私は、あるいは一生社会ではうつくしくない存在ともなりうると考えて、少し震えるのだ。
(ヴァージニア・ウルフ・コレクション「ある作家の日記」・みすず書房・1999年12月刊)
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