いわゆる「ハチクロ」。なぜわざわざ略すかというと、なんでもこの漫画、略語が出来るくらいに流行っているらしいので。
少し前?に「マリア様がみてる」を放映していた深夜のアニメ枠あたりでアニメ化放映しているらしいけれど、まだ一度も見たことはない。漫画もごく最近まで読んだことはなかった。
見たことはないけれど、私がちらほら目にする雑誌のそこここで「ハチクロ」という文字が躍っているので往年の少女漫画ファンとしては気になってしかたがなかった。
というわけで、先日一気に読んでみた。
まだまだ連載中らしく、最近でた最新刊までだけれど。
全部読んでの感想。
一気読みに耐えるくらいだから、とりあえず、面白い。
私がこの主人公たちと同年代ならハマるかもしれない。
漫画を読む前に、作者羽海野チカのインタビューをたまたま読んだ。曰く、萩尾望都を師と仰いでおり、作品の作り方も真似て、キャラクター設定のために一人一人のキャラの裏設定を徹底的に作りこんでいるとのこと。
なるほど、キャラクターに破綻はない。エピソードにそれぞれの一貫した人格みたいなものも垣間見える。
なのに。。。。なにかいまひとつのめりこめないのは、上に書いたとおりの主人公たちと私の年齢差に加えて、どうにもできない要素があった。
画面の粗さ。
私が実際にハチクロを読むまでの間に、電車の吊り広告だったり、雑誌のインタビューのカットだったり、色々な場所で絵を目にしていた。
カラーの絵はまるで絵本のイラストのように柔らかい線で丁寧に描かれ、色も淡く明るい。カットはこの作家が得意とするところの「切ない」シーンが多くて、丁寧に書き込まれた部分と力を抜いた白さがバランス良い。吊り広告にしろカットにしろ、インタビュー中の印象的な場面にしろ、どれも作者の思いいれと時間をかけた「部分」であることは疑いがない。だからかもしれないけれど、実際の「作品全体」を見たとき、その画面の粗さに目がちかちかした。
ちかちかするとともに気づいたのは、荒いのは絵だけではなく、ストーリーの作りにもあるということ。突然主人公の思い人が留学してしまったり、その留学先で大成功をおさめたり。
でも、不思議とその荒唐無稽なストーリーが物語の中にあるとすんなり受け入れられてしまう。
思い浮かべたのは、萩尾望都やその世代の初期の漫画群。
「外国」が珍しかったころ。西洋が「文化」そのものに見えた時代の、漫画の抱えた夢が主人公たちを突き動かしたストーリー展開。
ああいった時代に漫画が先祖帰りしている。。。?
ハチクロには、そう考えれば「え?」てくらいに現実離れした中心人物がいる。主人公のはぐは身長体型は幼児なみ(しかも主人公としては致命的にほとんどしゃべらない)なのに、彫刻の天才と呼ばれている。その思い人山田もある日急に姿を消したかと思うとハリウッドで突然大成功して美術でアカデミー賞を獲ってしまう。
それに対して取り巻く人々は呆れるほどに「ふつう」の学生や社会人。
仕送り前に窮乏してパンの耳かじってたり、死んだ旦那を思い続ける女性に片恋してたり、卒論に四苦八苦してたり。
その「スーパーマン的主人公たち」と「百人並の凡人脇役たち」を結ぶのは、友情であったり恋愛であったりの感情の横糸のみ。フォローは一切ない。
天才は天才。凡人は凡人。
設定の破天荒さは先祖がえりしつつも、先祖と違うのは、萩尾世代なら必ず探すであろう、人物設定の複雑さや深いトラウマはそれら設定ゆえのギャップを埋める用をなしていない。
徹頭徹尾一人一人が切り離されているのが、ハチクロの世界なんだと妙に納得。
それを粗いとみるか、個人主義の表れとみて面白いと考えるかは読む人それぞれなんだろうな。。
どうしても気になるのは、主人公の欠如。
上にも書いたとおり、天才であるところの主人公については、ほとんどしゃべらないという設定のもと、その過去も現在も未来も、暗示されるのみで明確に描かれていない。
全てが凡人たちの毎日を積み重ねることによって埋められていく。
これから先、ストーリーが収束に向かうとすれば、主人公たちに重心を持ってこなければならないだろうなと思うのは、素人の(おばはんの?)野暮な考えかしらん。。。
一体どんなふうにギャップを埋めるのか、あるいはこのまま埋めないで終わるのか。。
「私はあわなかったなあ」
と言って捨て切れないのは、もしかすると、私がハチクロ世代にまだまださよならを言い切れない、ギャップに苦しみ続ける「子どもおとな」なせいかもしれない。。。
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hachikuro
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