私が今一番楽しみにしているイベントのひとつ、ク・ナウカシアターカンパニー観劇。
演目はギリシャ悲劇「王女メデイア」。
五年前の演目の再演。
この芝居は最初から、劇中劇の手法を取っている。
宴会場に集まった紳士諸君が座の余興として演じるというような具合。
今回座が敷かれたのは、明治初期?の小料理屋。
次々に燕尾服にステッキ姿の紳士たちが集まってくる。
彼らが現れた小料理屋のステージには粗末な着物姿の女給たち。全員麻袋を顔にかぶせ、首から大きな顔写真を看板よろしくぶらさげている。
ク・ナウカの好きな強烈なメタファ。
顔は個人を外見で識別するためのたんなる記号に過ぎないと繰り返し、見せ付ける。
紳士のうちのリーダーが、配役を書いた紙を読み上げる。
配役を与えられた紳士達は笑いさざめきながら、自分の気に入った女給を品定め、自分の配役を演じる人形と決めて麻袋を取ってやる。選ばれた女は頬を染め、あるいは納得いかない配役に憤慨しながら、人形支度のために舞台裏へと消えてゆく。
やがて紳士達が席につき、人形達が舞台へあらわれ、「メデイア」の幕が上がる。
この状況から分かるとおり、舞台で演じる俳優達(moverと呼ばれる)はすべて女性。女性達を操る弁士(speakerと呼ばれる)たちは全員男性。
女性たちは男性たちの声、言葉、台詞に従って身体を動かし、表現する。しかし彼女たちの体でほとんど動かない部分がある。
それは、顔。
笑うこともなければ泣くこともなく、どうかすると仏頂面とも取れるその顔の中で、悲壮な目だけが、生きているものの証明として輝き続ける。
舞台上で麻袋をかぶせられ、男達に品定めされて選ばれ、なお自由のない操り人形として機能するしかない女達は顔を奪われてなお、身体の全てを使ってあますところなくその感情を顕してゆく。
ギリシャ悲劇「メデイア」は、恋のために家族を裏切り男に人生を捧げた女が、その男に裏切られ、復讐のために男との間に生まれた我が子を殺して自らを再生させる物語。
メディアの夫イアソンは、あの手この手を使ってメディアを説得し、自分がメディアを捨てて別の女(権力者の娘)を結婚するのは、権力を得ることでメディアとの間の息子に立身出世の道を与えるためだと言い募る。彼の理屈を押し付けて、メディアに罪悪感を与えようとする遣り方は、どこかで・・・いや、毎日見に覚えを感じる。
メディアの強い拒否と恨みと反撥は、こういった男系社会の正当化がどれだけ多くの犠牲を強いてきたか、どれだけ同じ苦しみが繰り返されたかをまざまざと見せ付ける。
メディアが殺す我が子は、彼女が男に支配され、男に捧げてきた人生から生み出されたものの象徴。
座興の終わり。
舞台に屹立する柱に埋め込まれた書物がいっせいに落ちてくる。
男達の言葉の、台詞の、社会の崩壊。
劇中の衣装を脱ぎ捨て、経血の赤に染まったドレスだけをまとった俳優達(女たち)が、次々に自らを操る弁士達(男たち)に刃をもっておそいかかり、絶命させる。
舞台にひろがる血の色のじゅうたんの上、胎児のように丸くなってびくびくと跳ねる男たち。
男社会に支配された女達。
言葉に支配された体。
どちらをも脱ぎ去り、残ったのは女たちの体。
内面が大事といいながら、でも体面はもっと大事と心の中でつけくわえる。
愛しているといいながら、でもお前は女だから、男だからと心の奥でつぶやいている。
言語は男に作られた。男社会のための道具。
でも、その言語を失えば、女はなにを持てるのか。
社会は何を持てるのか。
言葉なしに、体だけで、なにが出来るのか。
血の海の中で女たちに殺され、生まれ変わり、胎児となって飛び跳ねる男たちと、彼らに一瞥もくれない女たち。
男たちは再生する。では、女たちに再生は不要なのか?
終演後のアフタートークで、演出の宮城氏が、舞台上の天井まで届く塔のような書棚はペニスであると語った。それも、サルのペニス。棘をもち、雌サルのヴァギナに入ったら決して抜けないペニスを表しているそうだ。棘は書棚から飛び出した本たち。
そういわれると、板敷きのじゅうたんが流れる血のようであることに説明がいく。
棘をうしなったペニスは、女を支配する力を失う。
うーん・・・やはり私には、宮城氏が男性であることが不気味でならない。
(ちなみにこのク・ナウカ「王女メデイア」は10月9日の芸術劇場で劇場中継されます。興味のある方はどうぞ。http://www.nhk.or.jp/art/yotei/yotei.html)
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