神谷美恵子の「遍歴」を読んでいる。
神谷美恵子は戦前、戦中、戦後を通して医学を志し、戦後にはハンセン病患者のサポートを精神医学の面から行った医師であり、研究者である。
私が神谷を知ったのは、ヴァージニア・ウルフの日記の翻訳を行ったのが彼女であったことから。ウルフの緩急自在の文体、それも日記という文字通り素顔の彼女の文体をできるだけ原文に忠実に日本語にするというのは骨の折れる作業だったことだろうと思う。神谷はその神がかり的と思えるような作業を緻密に、かつ柔軟な姿勢で全うしている。分厚い日記を読み終わったときに私はまさに、ウルフの精神の触れた気がしていた。あとがきを読んでなるほどと思った。精神科の専門医が訳したということに、納得した部分が大いにあった。
「遍歴」は死を目前にした神谷が自らの人生を振り返り、その折節にであった人々への思いと、残される人々へ伝えたい歴史をつづったもの。ある意味遺書とも言える。彼女の医師・研究者としての求道的というよりむしろ熱情的な姿勢に強く惹かれるのと同時に、彼女がやむにやまれぬ思いを抱いてキリスト教の扉を叩く姿が印象に残る。彼女にとって医学は自らが生きる道を見出すため不可欠のものであり、宗教はそれを、人に奉仕する人生を支える背骨のようなものだったと推測できる。
彼女が初めてハンセン病(文中では『らい』という記述になっている)患者に接し、その病気の人々のために献身したいという思いを抱いたときの記述は、そのあまりに赤裸々な情熱のため私を戸惑わせた。
高校、大学とカソリック系教育を受け、あまつさえ一年間は厳格なローマンカソリック修道院の付属寮ですごし、毎日ミサを受けて日曜には教会へ通った身のくせに、なにひとつ「教え」が身についていない私には、彼女の病める人々への熱烈な傾倒は不謹慎に映ったのだ。
誰かが苦しんでいることを、この人は喜んでいるのか。
この問題は、奉仕活動を行う際つねに付きまとう疑問だと思う。私が高校生のころ奉仕活動についてクラスメイトと話していたとき、彼女が悠然と言い放った言葉を思い出す。
「自分のことさえ満足にできない人間が、どうやって人を助けられるの?」
その彼女は当時、つまりは『だから、奉仕活動なんて余裕がある人間だけがすればいいのだ』と言いたかったと推測するけれど、その後20年をまったく無駄に食いつぶしたわけでもない私は、とりあえず反論はできる。
「自分のことが満足にできないからこそ、他人を助けるのだ」
他者と補い合う関係をもった不完全な人間が、自足しきったひとりの完全な人間よりも豊かで、少なくとも幸福であることに、今の私は疑いを入れない。けれど、他者が不完全であることを喜ぶことは、果たして本当に他者の幸福を願うこととイコールになりえるのか。その答えはどうしても出ない。そういう疑問をふと、神谷美恵子のハンセン病患者への熱情の中に抱いてしまったのだ。
80年代、アフリカの飢餓により死に面した子供たちを救おうというイギリスのロックやポップスのアーティストたちが立ち上げたプロジェクトBand Aidの出した曲「Do they know it's Christmas?」の中にこんな歌詞がある。
「Tonight, Thank God it's them, instead of you」
(今夜神に感謝するんだ。君の代わりに彼らが餓えているのだということを)
この歌詞を最初に聴いたとき、やはり私が覚えた戸惑いは、神谷の患者と医学の道への傾倒を見たとき感じた動揺と似ている。
誰かが餓えていること、それも自分に代わって、ということを神に感謝するというのはいったいどういう意味なんだろう?
この辺は日本語と英語の言葉の違い、さらに宗教的背景がものすごく強いのだということを、長年のうちに次第に理解してきてはいる。でも、今感じるのは言葉そのものよりもより強い「宗教」と「文化」の絡み合った影響なのだ。
恋人と少し話したときに彼女から出たのは、「全体のバランス」という言葉。誰かが不幸になることと、私が幸せであることはどこかで釣り合っているということか。全体で一つである、この世界が寄り集まってまったきものになるという考えも、ひとつはあるだろう。
私が今何より感じるのは、「幸福であること」への強い肯定である。日本文化にどっぷり浸かって育った私は儒教の影響なのか、どこかに「幸福である」自分への罪悪感が常にある。むろん幸せを追求したい気持ちはあっても、幸せな状態で辛い人に対したときに「申し訳ない」という気持ちが真っ先にくる。私が幸せであることと、相手が今辛いということはまったく関係がないのに、どこかで自分も同じくらい辛くなければいけないという妙なバランス感覚が働いてしまうのだ(これは上で書いた「バランス」とは違うもので、常に「一緒」でなければならないという奇妙なこだわり。)。でも、上記の神谷やBand Aidの歌詞にはこういった「幸せでごめんなさい」という感覚は感じられない。
イギリスで学校の夏休みに訪れた修道院、シスターたちが修道服のままラウンダー(ソフトボールみたいな球技)に興じ、新鮮なフルーツたっぷりの朝食(私がイギリスで食べた中で最も贅沢な食事)を楽しんでいるのに驚いたことを思い出す。
幸福を追求することは、恥ずべきことではない。
他人が不幸であることを悲しむ前に、自分に出来ることがあることを喜ぶ。
「遍歴」の神谷美恵子の求道のありかたを垣間見て、その喜びの背景にあるものの姿がおぼろげに、私にとってはまるで霞のようにぼんやりと浮かんでいる気がする。いったいなんだろう。考えながら、もうすこし読み進んでみよう。
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