野性時代という角川の雑誌に掲載された短編「隅田川」というのがある。まだ単行本にも収録されていない。二人の少女が社会への怒りをぶちまけるために手に手をとって入水するこの痛ましい物語は、おそらく中山可穂自身が「傍観者」となりはじめた最初の物語だと思う。だからこそ他者の「死」をまるで美しいマボロシであるかのように描けたのだと思うのだ。私自身はこの物語に描かれた少女たちの発光したような熱に強烈に惹かれる。惹かれつつも、どうも絶対的に好きといえないのは、この「傍観者」の目が傍観者であることに居心地の悪さを覚えているせいだろう。主役になりたい脇役的な悲哀みたいなものが、なんともいやな感じに思えてしまうのだ。入水する少女たちをうらやむ大人の女の卑屈さをそこに感じてしまうのだ。死に損なった大人というのがいてもいい。でも、目の前で死ぬ少女を羨む視線は嫌い。
「熱帯感傷紀行」で描かれていた中山可穂その人はすなわち、「天使の骨」の中の主人公ミチルに姿を変えて登場する。そうして彼女の作品の中で主人公は必ず本人であり、姿を変え、名前を変え、職業を変えてもその人間性は不思議なほどに変わらない。おそらく作家も変えようとしてなど、いない。ケッヘルの中で、主人公がトルコ人についてふと漏らす印象、それはまさに天使の骨でミチルが感じていたことにそのまま重なる。こういう作家としてあまりにもウッカリしたところに思わず「まったく」とホザキつつ、ついつい私はほだされる。中山可穂をついまた買ってしまう。おそらくその「変わらないところ」に私は中山可穂が中山可穂たる所以を見出すから。
けれど、「隅田川」以降の作品には主人公がいつのまにか物語を傍観する人間となっている。いわゆる神の視点にもなっておらず、単なる客席からみた舞台上の主役の観察となってしまっている作品が多々見られる。
しつこいほどの主役へのコダワリからなぜこういう形にすっ飛んでしまったのか、中山可穂を知っているわけでもない私には憶測もできないけれど、主役のやさぐれの最たるものが「ジゴロ」というクソ短編、対して相反する立場の中間点でよいバランスを保ったのが、「弱法師」や「花伽藍」の短編集かと思う。
「隅田川」以降、私が「気に入らない」単なる傍観者的視点がここ数年続いていることがたまらなく不安だけれど、いつぞや恋人と話していたときに彼女が言った言葉が言いえて妙だったことを思い出す。
「もし中山可穂が、私らがボロクソ言うようなダサいジョークも、腹が立つようなナルシシズムも、破綻するストーリーもない、安定した作風の作家だったとしたら、あたしらここまでムキになって読み続けないだろうねえ」
うん。確かにそうだねえ。
不安定でこそ中山可穂。
ぶきっちょでこそ中山可穂。
へたくそでこそ中山可穂。
でも結局そういう作家中山可穂を私は愛して止まない、のである。
それでも頼む。妙に世慣れたわたり方を身につけないでほしい。サスペンスだのミステリーだので「食べていこう」なんて思わないでおくれ。そういう計算が見えた瞬間、作品のファンは冷めてしまうものなのよ。
作品に、純粋に作品に力を注いでください。
私という読者にとって、中山可穂という人間よりも彼女が書く作品のほうが優先される。人がいなければ作品がないという事実を考えればひどい矛盾だけれど、この矛盾をものともしないのが読者というもの。人に興味があっても、それ以上にまずは作品、書くものに興味がある。ナルシシズムは歓迎しても、ハンパな計算には眉をひそめるのが作品の読者なのだと、勝手に断定口調。
最近のコメント