都会のビルやネットの場面が多いのに、終わって頭に繰り返しよみがえるのは、みずみずしい緑。
竹子の弟がいる施設の、植物園のような庭の緑。
彼岸花がざわざわとゆれる、草むら。
台湾映画。
台湾といわれても、なんのイメージも湧かなかった。私にとっては近くて遠い国。
画面に映る「どこかの島」の世界は、やはり日本とは違う文化を感じさせるし、人、家族の在り方も似ているようで違う。
それでも、心に染みる緑の色だけは、どこかで見た、感じたと思う。
その緑は、亜熱帯の湿度にしっとりと濡れていて、分厚い葉の水分が、丈夫な葉をのっしりと重量をもって地面に引き摺り下ろそうとする。そんな重い緑。
あるいは、風に揺れる無数の背丈のすらっと高い草は、乾いてぱりぱりと音をたてそうな、肌にちくちく刺さりそうな、そんな浅い緑。
様々な緑を、私たちは知っている。それら緑の記憶はおそらく、アジアという近い地域だからこそ感じ取れるものがあると思う。そしてそれは、刺青もまた。刺青になにをたくすのか、なにを込めるのかという話になったとき、デフォルメやシンボルを焼き付けて忘れないようにと唱えるのが西洋のtattooならば、忘れられない個人的な思いを植物や人物にこめてリアルに表現するのが東洋の刺青のように思える。
親に見捨てられた幼い頃初めて恋した人である、彫り師竹子にせがんで、小緑が入れたがる刺青は、竹子と同じ、彼岸花の刺青。
竹子はそれを震災で亡くなった父から受け継いだ。
竹子は自分の恋ゆえに震災の際に幼かった弟を一人にして父の死に直面させ苦しめたと自分を責め、恋愛に対して心を閉じている。小緑もまた、一人の日々をいたずらにネットアイドルとして存在することで心の穴を埋めようと必死でもがいている。
二人が再び出会い愛し合ったとき、またも悲劇が起こる。
二度目の悲劇を目の当たりにした竹子は、自らの肌に刻んだ花である野に咲く彼岸花を切り落とし地面に叩きつけ、靴で踏み潰す。激しい自己破壊。彼岸花を手折るだけでなく、足で踏み潰してしまう行為は、竹子の父や弟、そして彫り師として身をたてている自分自身をも否定すること。
竹子が望んで身体に刻んだ、父の彼岸花は、施設の崖に転々と咲いて弟を死に誘い、あるいは竹子の心に激しい痛みを与えて踏み潰される。けれどその花の咲く崖は、かさかさと音を立てる一面の草原に覆われていて、それをすべて踏み潰すことは、できないのだ。
それにしても、竹子、という日本人の血が混じった主人公の一人は、圧倒的にうつくしい。アジア映画どころか映画そのものをほとんどしらない私は思わず知らず必死で検索。香港の女優であることを知る。そのうつくしさは、滅多に映画やテレビでも見ない、芯の強さとしなやかさがあるように思える。微塵も媚がない。悲しげではあるけれど、儚さは感じさせない。死の方を向いてはいても、惹かれてはいても、その実体の確かさは紛れもなく生きている人のそれだ。
青々と夜の照明に光る植物園の緑と、物静かだけれど激しい思いを抱いた竹子のうつむいた横顔の取り合わせからは、しんとした空気の密度の高さがじわじわと伝わってくる。しっとり濡れた葉のつややかさと、力強さは、竹子の人となりを連想させる。青々した緑の映像が私の中に残っているのは、なんのことはない、この女優の存在感だったのかもしれない。
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