バレエを見るのは好きで、といって高いクラシックバレエのチケットをそうそう買えるはずもなく、ときどきモダンやら張り込んで海外の有名カンパニー来日公演を見に行ったりを二十代から三十代の前半はしていた。大人になって逆にそういう機会が減ったのは残念だけれど、ナマのバレエをあまり見なくなったこの年齢になって逆にやっと舞踏の面白さをすこしずつ発見しつつあるのはまた、不思議でもあり。
最近のきっかけはやはり昨年見た、ク・ナウカとガラシの合同公演での舞踏と即興演劇が混ざったような不思議な舞台。なぜなのか分からないけれど、最初に暗いホリゾントにたった役者たち、ダンサーたちの蠢く姿を見た瞬間から、自分の皮膚の毛穴が全開してそっちの空気を吸い込みたがっているような、言葉にしきれない圧倒的な体験だった。それと前後して、テレビでLaLaLa Human Stepsという舞踏集団の作品を見たのもある。それまでの私なら退屈してしまっていたであろう、何十分もの時間のひたすら踊り続けるストーリーがない画面を、食い入るように見ていた。あれ以来、身体というものが気になって仕方が無い。
このところの不調もあって、本もあまり読めないのだけれど、とりあえずふらふらと図書館に出かけた。
彫刻についての解説書をながめて手にとり、ぶらっと回って気付くと立っていたのは、舞踏のコーナー。ヒトガタの参考にしようと、バレエの写真集を眺めていて、目に入ったモーリス・ベジャール自伝。サブタイトルに心を惹かれた。「他者の人生の中の一瞬。。」舞台にたつ人間に限らず、時間芸術に携わる人間にとっては、おそらく共通の思いだろう。私は舞台関係者ではないけれど見るのは好きだから、その百万分の一くらいは意味がわかる気がする。
本を抱えて帰って、早速開いてみると、ベジャールという人が猛烈な勢いで文面から噛み付いてきた。うわあ。これはすごい人だ。私は上に書いたとおりバレエはほんの少ししか観ておらず、ベジャールの振り付けも有名なボレロを別カンパニーで観た程度なのだから、先入観も持ちようが無い。ダンサーを文章だけで判断するなんて気違い沙汰と承知のうえで、それでも彼の自伝はあふれ出る言葉に彼のエナジーが満ち満ちていて、誰にも真似の出来ない、けれど誰でもそうかと納得できる強さを秘めたものだった。
『ところで、バレエがうまくいったと言えるのは、バレエを観終わった人々が、われわれの踊りのことを語らずに、彼ら自身の生活を語ってくれるときである。嫉妬深い男は、そこに嫉妬心の一連のヴァリエーションを観ていただろうし、父親と問題のある男は親の権威についての絵解きを観ていた--などと、人々がいかに自分自身を投影しているかを知ることによって、私は多くのことを学んだ。人々は極端なほど自分自身を投影するのだ。自分を投影する---それだけをするのだ。』
モーリス・ベジャール自伝
こういうことは、バレエに限らず、あるいは舞台に限らず、すべての芸術において言えることだとも思う。本でも、読み終わったあとでその本の世界から拡がって読み手の経験に訴えることができたとき、はじめて「伝わった」といえるようにも思う。むろんその逆も言える。芸術作品は、読み手の小さな世界から想像もつかない広さへと世界を広げる手伝いもしてくれる。
ベジャールの筆はあちらへ飛んだかと思えばこちらへ飛んで、バレエの話も年譜に沿ったものの中にときどき回想がちりばめられて、思うまま時間をいったりきたりする、あまり正確とはいえない自伝になっている。けれど、ときどきダラダラと続く舞台の回想の中に、突然覚醒させるような彼自身の感覚の大波が訪れて、読んでいる私を彼の思考の渦に巻き込んでゆく。そしてそれらは、とても馴染みのある、私が覚えた感覚に限りなく近いものと感じる。嘘も真実も、おそらくは出来うる限り率直であれと願った結果がこれらの文章なのだろう。
『新しい出会いの時に「私はいまだかつて、君ほど深く愛した者はなかった」と告白するこの嘘の中に、どんな真実があるというのだろうか。それは、数少ない友人に打ち明けるように「これを言うのは馬鹿げている。でもこんどの愛は初恋と同じようなもので、今までこんなに愛したことはなかった」と繰り返しながら、真実と思い込んでいる嘘なのである』
人は嘘と真実をときどき裏返しに理解したり、あるいはまったく違う感じ取り方をしたり、もしかすると真理とはかけ離れたところを歩くものかもしれない。そのこっけいな姿をも、ベジャールのようなシビアな観察者・表現者はありのまま刷りだし、作品の中にあらわしていってしまう。精神性などという曖昧な表現ではなく、肉体という極めてconcreteな実体としての表現で。怖いけれど、決して目が離せない。
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