朝。目覚めてすぐ、山に棲む親友からピーマンが届く。よっしゃとばかりに小さな箱いっぱいのぴかびかする新鮮なそれを片っ端からグリルして皮をむき、みじん切り玉葱とともにマリネする。これで一週間幸せに過ごせる。
ひとつしかない心は捧げられないので、身悶えるしかないことが悔しいほどの人形作家天野可淡の展示を見るために渋谷にむかう。渋谷はよほどの用がなければ避けたい場所だから、出掛けるのに気合いがいる。せめて一人でいくのが苦手な池袋を経由しないコースを選んで地下に潜る。轟音たてて電車は走る。まるで百年ぶりの恋人に会う緊張。あたしが百五十歳くらいなら、きっと。
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猫がいた。
椅子に座ってあたしを見上げていたあれは、まぎれもない猫、愛されることに慣れていつでも抱き上げられる、
けれど決して意志を相手に預けることのない、猫だった。
あたしが人形をいとしく思うとき、その存在はあたしの喉のうらあたりに入り込み小さな爪でかり、かり、と磨ぐ。生身のあたしにはどんなにあがいても入り込めないあたしの内臓に、他者たる人形が直接触れてくるのだ。
苦しくないわけがない。それでもあたしはそれらの侵入を喜んで許し与えられる痛みを珠のように慈しむ。
あのいとおしさ、切なさはあたしの何かをばらばらにしてしまう。
猫ならば抱き上げてなでさすり甘い声を出させることもできるが、人形は生きているものとは違う。撫でさすることに意味をもたせるももたせないも、人次第なのだ。
入り口に入ってすぐわかった、ここはギャラリーではなく、可淡自身の部屋なのだ。配置された古い椅子や家具。部屋に流れる音楽も、可淡が制作時にいつもきいていたという、ジェーン・バーキンのウィスパリング・ヴォイス。入った瞬間、信じられないことにこの部屋に私以外お客がひとりもいないということに気付き、心臓がどきんとひとつ、大きく打つ。可淡の人形と一対一で対峙できる幸運なんて、まずこれから先もないだろう。エレベータを降りてきたばかり、すぐ外にある日曜昼間の渋谷の喧騒をおもえば、ほとんど奇跡のようだ。いったいなんの祝福を受けたのだろうと、胸が震える。
入り口の椅子に荷物を預けて、ゆっくりと回り始める。まず目に入ったのは猫のオブジェ。胸像のような小さな顔の猫は、鋭い瞳、細い牙を剥いている。
部屋のひとすみにおかれたベンチに、小さな人形たちが五体並んでいる。ひとめみて、小ささゆえの愛しさがこみ上げる。一体一体の人形にすべて表情があり、それらは並んで一群れの可淡のひとびととなっている。ひとりひとりが独立して、けれど一群れで可淡世界。完成度が高いせいなのか、統一感がそれぞれの独立した個性を損なっていない。
ふと横を見ると、小さな椅子に別の小さい人形が二体。一体はフランス伝統のビスクドールを意識したと思われる、頬がすこしぷっくりとして、手足も赤子のようなふくらみのある少女人形。写真集でも見たことはないようなタイプ。もう一体は、可淡独特のあの彫りの深い表情の陰のある瞳に真っ黒な髪の子だったから、奇妙に対照を成している。なのに、違和感はまったくない。
暗い足元を確認しながら部屋の奥に歩をすすめる。
左手に、5年前の展示でも見かけた等身大の少女を見ながら、あああのときの展示をと思い出す。
ゆっくり進んでいって、曲がり角のそこの小さな椅子に、彼がちょこんと座っていた。こちらを見上げていた。ぷっくりとした頬の、あどけない表情。あどけない表情の人形になんて興味をもたないあたしが、おもわずしゃがんで微笑みそうになるくらいに、彼は悪魔的だった。魂なんてない人形が、なぜそのような愛の塊でいられるんだろう。可淡の人形はいつもいつも、高すぎるくらいの純度と密度を抱えていて、どれにもそのエネルギーのマグマを感じる。残念なことに、素晴らしい写真には、そのマグマは写っても、そこに湧き上がる愛は写らない。それはたとえカメラでも人と人形の間を隔てた存在によって、さえぎられる何かがあるせいなのだろうか。
だから、純度の高い人形は、写真ではその半分も見たことにはならない、と私は感じる。写真ですべてを写せる人形というものがあるとすれば、それはカメラという媒体をも人形の装置として使った、役者としての人形だ。
可淡の人形は役者ではなく、役そのものだ。存在そのものだ。この小さな少年人形は、全存在をかけて、その瞬間対峙するあたしに、愛の謎々を仕掛けてくる。思わず抱き上げたくなるのをぐっと抑える。本来は抱き人形なのだから、抱き上げたくなるのは当たり前だけれど。
部屋の一番奥のついたてのむこうにあった人形は、私にとって原点となった少女人形であった。わりとつぶれ気味の鼻が多い可淡人形の中でも細い鼻筋がすうっと通り、目の視線が泳いでいる危うげな表情。髪は真っ黒というより青みがあるブルネットのおかっぱ前髪。下着だけをつけて、黒いストッキングが肢の形を生々しく象っている。痛々しいエロティシズム。けれど強い。ほんとうに。あの強さが私をひきつける。筋肉の線が、反り返った背骨が、突き出た肋骨が、ああ、どこまでもあたしがみたいものの原型を教えてくれる。
帰宅してから、我が家の猫をなで、仕事に集中する恋人の邪魔をして話をする。しばらくしたら、突然強烈な疲労感と気だるさに襲われて、激しい頭痛。横になって数時間仮眠。なかなか頭の鈍痛が抜けてくれずに、薬を倍量飲んでまた横になり、ようやく一息つく。頭の芯に可淡が残っている感覚。結局人形をひとめぐり見て、ベンチの五体の人形たちの前にしつらえられた椅子で彼女らを眺めながら、いやむしろジロジロと見られながらオレンジジュースを啜っている間に、人形を観るのではなく、人形に盗み見られる感覚が胃の底にしみついてしまった。その名残が頭痛を引き起こしたのかもしれない。ゆめゆめ簡単に人に語るべきではない、と知っている。でもどうせ、書いても書いてもエッセンスが薄れるようなものではないのだ、彼女の人形は。
ああグノシェンヌ、あたしはどうすればいいのだろうね。次の子は少年だとわかっているけれど、グノシェンヌの居場所もまだ見つけられないなんて。溜息をつきながら、また手を動かすしかない。可淡の人形は、力に溢れていた。愛に溢れていた。その塊を胸に飲み込みたい。ぐっと、そして押し止めたいけれど、生きた塊は確実に私の喉から飛び出してしまうのだ。制御できないから、愛、なのか。そんな屁理屈は粉々に砕けてしまえ。
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