ソフィア・コッポラ監督、ビル・マーレイ、スカーレット・ヨハンソン主演の映画「lost in translation」を見る。日本がまるで外国に見える、ソフィア・コッポラの視点をそのまま丸写しに味わえる、とても奇妙な体験。
仕事に倦んだハリウッド俳優と、右も左も分からぬうちに結婚してしまったばかりの女性(というより女の子)が東京の摩天楼で出会い、時間を過ごす。
ストーリーはとても曖昧でぼんやりと通り過ぎる、あるようなないような。
ただ、見ている間ずっと私の耳がふさがれていたような、あるいはガラス一枚を隔てた世界を見続けていたような。いや、むしろ水槽の中の熱帯魚を見つめていたような。
ずっと何かを模した世界を映し出す大都市東京。でも見慣れたこの街は、アメリカから来た若者と中年の目を通して、見事にあっという間に巨大なセットと化している。そう。この猥雑さはちっとも生命力を感じさせない。ふわふわと浮かんで流れてゆくばかりの幻なのだ。
スカーレット・ヨハンソンがパークハイアットの一室で、強固な一枚ガラスの窓を隔てて立ち並ぶ新都心のビル群を見下ろしながら膝を抱え込むシーンがある。窓に張り付くように丸まるヨハンソンは、カメラの方向のせいか、まるで空中に浮かんでいる心許無さを漂わせる。足許が無い、という感覚。
むかし地上50階の高層で働いていたころ、朝エレベータで空中へ運ばれたあとは、夜暗くなってから地上に降りるまでずっと、宙に浮いて仕事をしていた。冗談抜きで、足許が浮く感覚が常にあった。ホテルの窓と似た視界の眼下に広がる世界はまったく非現実的で、なにより天気が分からない。曇り空のときは、ビルの谷間を雲が漂う。地上に雨が降っているときは、エレベータの足許のランプがつく。
バベルを築いてしまったのだから、人はもはや人知及ばぬところへ踏み込んでいるのではないか。そんなことを考えながら、空中を頼りなく見下ろすヨハンソンの横顔、ちょっとうえをむいた鼻を見ている。「理想の女」でも思ったけれど、ヨハンソンは天性の迷子だ。あの薄いブロンドに縁取られた柔らかい輪郭によく映える蒼い瞳。ビー玉みたいな蒼が泳いでいるのを見ると、手を差し出したくなる人は多いだろう。私はそのうちの一人ではないけれど、差し出された手を取る彼女を、遠く眺めてじいっと観察してみたい。その瞬間、彼女はまさにlost in translation、見えない壁、彼女に手を差し出そうとする人々の壁にすっかり囲まれ取り込まれて途方にくれているに違いない。
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