中山可穂の新作が出てます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4048739913/
過去に野性時代に掲載された短編集のようです。能楽にヒントを得ているあたり、「弱法師」と姉妹的位置づけかな。
「隅田川」は、三年以上前の作品だ。。それでも新作が定期的に出ているだけいいんだろうな。
mixiのコミュを覗くとファンが「今までと違う」「熱がいまひとつ」というような感想があるけれど、これは「隅田川」を最初に読んだときに感じた「傍観者的」な視点のせいだともあたしは思う。久しぶりの新作。買おうかどうしようか。。。初めて迷っている。サイゴン・タンゴ・カフェをとうとう読み切っていないというせいもあるからなあ。。
また、タイトル(悲歌と書いてエレジーと読ませる)がベタ過ぎて、どうも引いちゃうんだなあ。。
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最近私のアイドルNo.1、Adam Lambert君のデビュー・シングルがなんでも「Depeche mode-meets-Queen」っぽいチューンになりそうだという情報(Rolling Stone誌)を得て、不安半分期待半分。まあよりによってあたしが二十年来愛するDepeche ModeとQueen的とは。。好きなだけに「もどき」を許せそうにないので。。。はい。でもやっぱり楽しみですよ。アメリカ初のバリバリゲイなメジャー歌手。Artistに関してsexualityがどうのというのは野暮を承知ですが、やっぱりカムアウトしたゲイ・ビアンが活躍するのを見られるなら、応援したくなります。まあそんなこと抜きに見ているだけで面白いスケール感のある人だからなんだけれども。
たとえばあたしの中には無意識に、あくまで無意識にですが
「女性だから応援したい」
「sexual minorityだから応援したい」
という場所があって、それとあたしの「好み」とは微妙にリンクします。もちろん女性だとかminorityだとかいう要素以外にあたしにピンとくるものがないと駄目なんですが、それゆえに「弱い」ところは確かにある。いわゆる「えこひいき」ってやつです。
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そんなわけで?中山可穂の新作を手にとってみようと最寄駅のそばの書店へ。この書店、小さい町の書店ぽいのだが侮れないのは、人文系に強い。文学系の新刊はもとより、女性学関連、サブカル周辺、ちょっとディープな海外ものあたりに強くて、「なんでこんなものが??」てな本が置いてあったりする。有名どころなのに一般書店での扱いが少ない須賀敦子の全集や松浦理英子の新刊なんかもここでゲットしている。で、今日は中山可穂なんだが、探しても無い。無いってことは売れたのか?でも、発売してまだ一週間程度。そんなに売れるのか??と疑問抱きつつ棚をぶらぶら眺めていたら。。。。見つけました。いえ、中山可穂ではなく。「トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界」冨原眞弓。ガルムというのはトーベ(ずっとこう表記してきたのであたしはこれで行きます)が若い頃イラストで活躍した左翼系の雑誌。相当政治色は強く、ましてや大戦のころは常に芸術家からの表現の自由に関する強いメッセージを発し続けていた雑誌。このガルムとトーヴェの関係を掘り下げたのは、ポストムーミン作品の翻訳をすべて手がけた冨原眞弓。この本が出ていたことは知っていたのだけれど、3800円という値段から尻込みしていました。が、地元の書店で見つけたなら、もう買うしかないでしょう。それにしても、こんな分厚いハードカバーでムーミンファンも手に取らないようなお堅い本を出す出版社の心意気に惚れます。
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ここ何年も疑問に思って、あるいは身に染みていたことをすぱっと言い表してくれる文言を見つける。
「文脈がわからなければ、それはインフォメーションだけ、経験じゃない。インターネット世代の問題は、経験がないことだと思う。「それ知ってる」ってその「知ってる」って今はどういう意味で使ってるのか、どう定義するのか。自分の人生に音楽が入り込まなければ、経験はできないと思う。製品のように扱うだけでは、わからないと思う。もちろん年を取ってみて初めて経験したことがわかるんだろうけど、今の若者は大人になると本当に経験があるかどうか知らない…。」
http://www.cinra.net/interview/2009/09/15/000000.php?page=1
ミュージシャン、ジム・オルークのインタビュー。この現象は若者に限らず、インターネットの恩恵を享受するすべての人に当てはまる。もちろんあたし自身も。ものごとの芯となる「文脈」というのは物凄く大事で、ときにはそれだけしか必要ないように感じられることもある。けれどネットはそれらを完全に分断して、情報、それも目の端に映るテキストレベルにまですべてを裁断してしまう。しかもそれが裁断されたことに読んでいる人間はとても気づきにくい。ごく一部を読んで、全体を読んだ気になっているのは普通の本や雑誌や新聞でもありえるけれど、ネットではそれが「基本」になる。これは読む人間の読解力や姿勢の問題ではなく、ネットというものの特性だから避けようがない。
ジム・オルークのインタビュー、スゴイね。
わたしも最近、若い世代の作家と話してて、このことをすごく感じてた。こんなスッキリと言語化できるなんて。
そういうわたしは、もちろんインターネット上では避け難い事態にしろ、インターネットに限らず、身体性を伴わない体験をさせてしまう媒体は、インフォーメーションとしての役割だけにして、もしくはシャットダウン(テレビない。ラジオ聞かない。)して、自分の手と足で補足する努力をしているので、わたしも無関係ではない、とは思いませんケド。タイヘンだなー。若いコはって、思っているフシが。傲慢か(笑)。
投稿情報: robacs | 2009年9 月27日 (日曜日) 午前 12時34分
にゃるほど。意識的にrobacさんは遮断しとるわけですね。ご存じの通りおそろしく刹那な快楽に弱い(弱すぎる)あたしはそういった情報の海に簡単に飲み込まれるし、ネットについては正直その可能性を模索する側だったことを今でも引きずっています。というか、思い切りリアルタイム。
たとえば表現手段(完全に定着しきった日記とかネット小説の類のこととは違います)としてのネットを捨てきれないのは、テクノロジーとの密度の高さゆえに目にもとまらぬ速さで変化してゆくこと、それゆえに十年がまるで現実世界の倍以上前のことのような感覚でとらえられる特殊な世界観のため。ただ、その辺は明らかに「皮膚感覚」が現実世界とは違う。そのことをどう分けて考えるかが、本当に難しい。ジム・オルークの言うことが身に迫って感じるから尚更。
ところでこんな遅くレスしといてなんですが、robacさんとこはコメントつけられないのかしらん。一度付けてみたんだけど、どこにも現れませんでしたわ。
投稿情報: K | 2009年10 月 1日 (木曜日) 午後 05時49分