最近本が進まないので、軽めのものに走っている。
再読した笙野頼子のエッセイに出てきた言葉。
名誉白人文学。
「男性の文学なみに素晴らしい」女性の文学という位置付けらしい。
つまりは寛大なる男性に「男性じゃないけど、男性と同じ地位をあげよう」とお許しいただいた作家の書く作品ということか。
男性文学に媚びている女性文学?
女流という言葉にうひょーとなりながらも、自分の好みの作家を並べれば「女流」という言葉以外のなにものでもないなあと思う今日このごろ。もし「女流」という言葉が男性中心の文壇の中で腫れ物に与える病名のように無理矢理作り出された言葉でなければ、あるいは素直に「私は女流文学が好きです」とにっこりしていたかも。
トーベ・ヤンソン
メイ・サートン
ヴァージニア・ウルフ
吉屋信子
森茉莉
須賀敦子
中山可穂
笙野の小説は読みきってない。つーか、読むのを脳味噌が拒否する作品群があって、それは私にとってオノ・ヨーコの「ただのあたし」を読もうとするときに感じた抵抗感と共通するものがある。
読んではいけない。
読んだら生き辛くなる。
読んだら思考の流れが止まらなくなる。
それはあたかも自白剤のごとし。奥にあるものがドタドタと大挙してくる。パラダイスフラッツで親世代を擬態させて喜び、硝子生命論で死体象って小躍り、二百回忌で自分の中の神道魂にちょいがっくり。S倉でうっかり調子にのり、水晶内制度に打ちのめされた。
女流って何・・・?
トーベ・ヤンソンの作品はほとんど登場人物の性差を感じさせない。恐ろしく平坦。恐ろしく冷静。
メイ・サートンは彼女が彼がという前に、一人の人間としての誰々というものが重要になる。フェミニズムの波があるゆえに「個人」を意識した作家。
ヴァージニアウルフの女性観は古くさい。古くさいけれど、壁を越えることに意義を見出している。
吉屋信子、森茉莉は少女の存在意義を。
須賀敦子は大人になることのオモシロさを。
中山可穂は現在進行形のこの人生を鏡に照らす役目をしてくれる。
「女流」作家たちだけでこれだけ楽しめるのは、どこかで「男性」作家たちを読むたびに感じる狭苦しい箱を感じないですむから。
でも、笙野は私にとっては鬼門。そこから出たら、二度と戻れない気持ちがして、鬼も矢も何も全部放り投げたくなる。
箱の中は窮屈。
でも、線を引かない世界は、私には広すぎて怖い。
少なくとも、「名誉白人」だけはゴメンなのだ。
meiyo_hakujin_bunngaku
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