私の読書傾向はかなり偏っている。
新しい分野に進出するにはよほどのきっかけがないとダメで、せっかく新しい分野を開拓しても、結局繰り返し読むのは同じ作家に落ち着く。
そうして繰り返し読んでいる本のひとつが、ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」。
私が持っているのは私が生まれる前に訳された新潮文庫の古い古い薄い一冊。
どこへでももって歩いて繰り返し読むので擦り切れてぼろぼろになり、やがて荷物に紛れて見えなくなり、仕方なく古本屋でまた求める。そうして手に入れた何代目かの本は、またページが薄くなって染みがあちこちについてしまった。
この本を読むときいつも頭に浮かぶ作品があることを、以前にも書いたように思う。そのくらい私の中で硬く緩く結びつく関係性。メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」。人間によって作られたのに人間に愛されない、醜く哀れな命の生み出す悲劇を描いた怪談だけれど、私を挽きつけるのはこの話が生み出される背景となった、作家たちの夜の会話までも含まれる。当時時代の寵児であった詩人バイロンと、メアリーの夫で同じく詩人シェリー、メアリーの妹クレアの四人がそれぞれ怪談を書いてみようと戯れに試みた結果の産物がこの「フランケンシュタイン」、そしてクレアの書いた吸血鬼の話は後の世でドラキュラ伯爵となって残ってゆくことになる。
この伝説となる四人が集まったサロンの空気と、「ねじの回転」で描かれる怪談の一夜で人々がスリルに充ちた物語を楽しむ空気がどこか重なって、いつもいつも私の中で螺旋のようにくるくる廻り、いつのまにか二つの物語の混乱がそのまま虚実の混乱となって戻ってくる。フランケンシュタイン博士の作った人造人間は実在ではないし、ねじの回転もジェイムズの創作であるのに、どこかの国の誰かの身に本当に起きたのではと、私のはっきりしない頭は思い込んでいて、その勘違いを私は訂正したいとも思っていない。誰かのサロンで「語られた」物語というものは、そのエピソードが人の口に上ったという設定によって、空想の空気を飛び越える翼を与えられてしまうのかもしれないと、想像の起こすイリュージョンをひとり楽しむのだ。
「ねじの回転」において、事件の真相、幼い少年と少女に起こった出来事の詳細はまったく語られない。語られないまま、家庭教師の女性が受けた印象のみ、そしてその事件によって引き起こされた悲劇の結末のみが厳然と提示される。
よみ終わったページを閉じるのももどかしく私はまた、考える。この事件の後、女性はいったいどのような余生を送ったのだろう。遠くへやられた少女は兄の身に起きた事をどのように受け止めたのだろう。そうしてゆっくりとした足取りで百回目の螺旋を廻ってから、ようやく私は現実に戻る。この物語はしかし、物語なのだ。けれど。私は、百回目の繰言をまた、繰り返す。物語が物語だからといって、真実ではないと、誰に言えるだろう。真理はそこにあるではないか。そうして私は満足し、百一回目の螺旋に入ってゆくのだ。
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