童話作家小川未明の今から80年前発表された代表作。
なぜかこの小川未明は女性であると思い込んでいた。
女性だろうが男性だろうが関係ないのだけれど、つい思い込んでいることは、私はよくある。
天野可淡は男性だと思い込んでいたし、ジュサブローは女だと思っていた。高村薫については男性だと思っていた。
男女の性別はその人の作品にどう反映されるのか。。そのことにもとても興味がある。
赤い蝋燭と人魚については、人魚の表現の生々しさや、見せ物小屋に売られた人魚の哀しみを淡々と、しかし大胆に「嵐」という形で描くところに女性性を感じたように思う。
そして、天野可淡の人形は、陰影のつけかたの激しさやデフォルメのきつさと外へ訴えかける表情から男性のように、そしてジュサブローについては人形に滲む念の奥深さのようなものに女性を見たように思う。
高村薫は、物語全体の熱さと冷たさのバランスの取り方が大胆なところが原因だろうか?
じゃあ、実際の性別を知ったあとで印象はどうかというと。。
まず、天野可淡については、彼女のかなわなかった恋の話とともに女性であることを知ったせいか、淡い共感とともに、彼女の人形にもどかしい哀しみを見るようになった。ジュサブローは、文楽の人形遣いに抱くような職人としての「仕事」に注目するようになった。高村薫は、相変わらず熱さと冷たさのバランスの良さは変わらなくとも、題材の取り方がなるほど女性かも。。。などと考えるようになった。
そして、小川未明についてはどうだろう。。
男性であることを知っても、何も変わらない。人魚はやはり濡れた肌の質感までも浮かぶようだし、赤い蝋燭が海から山へと上っていく光景は物悲しく、同時にぞおっと背筋を冷たい指でなぞられたような思いがする。
この違いはなんなんだろう。。と考えた。
ある芸術家がなんらかの作品を生み出すとき、そこに込められるものは千差万別。
込められるものの中に、その人の性別も混じる場合と、ほとんど混じりけなく純然たる「性」あるいは「生」のみが込められていくことがあるのだろうか。。?
「生」は生きとし生けるものすべてにあてはまり
「性」は雌雄、あるいは雌雄以外のものをわけるファクタ
どちらも重要だけれど、枠が全く違う。
私がこの世に生み出すものは、どんな「生」あるいは「性」をもっているんだろう。。。?
私が人魚を描いたら、どんな肌を持つ人魚になるだろう。。。?
akai_rohsoku
最近のコメント