野溝七生子。
私が読んだのは高校生のころだったかな?「ヌマ叔母さん」これと「山梔」のニ冊だけ。
私の記憶が正しければ、図書館ではめずらしい函入りの装丁。しぶいグレーにレリーフのような感じの模様がついてた。
あまりに間抜けな(失礼)タイトルとヘヴィな装丁のアンバランスさに惹かれて手にとってしまったけれど、これがはまった。
先に読んだ「山梔」で泣きに泣いた私は、「ヌマ叔母さん」でもそれを期待していたけれど、それとはちと違う。
短編集で、「山梔」の主人公阿字子もでてくるけれど、それらがそれぞれに「野溝」の世界でつながっている。どの主人公にも野溝のエッセンスがしたためられていて、狂気をおびたヌマ叔母さんにさえ、作者の目指す理想の女性像がはっきりと写し出されているように見える。
吉屋信子にもあった、「精神性」の高みは、野溝の場合気が狂ってまでも人間のあるべき姿を追い求めるという形で表されていたように思う。月夜に一糸まとわず歩む彼女は、痛々しいけれど決して卑屈ではない。
それは、「山梔」の阿字子が自分の存在を繰り返し否定するような言葉を吐きながらも同時に自分を、自分の心の気高さを信じて疑わないから美しい。
それにしても、野溝七生子といい、吉屋信子といい、本当に「少女」であることにここまでコダワルってすごいなと思う。年齢だけではなくて、内面としての「少女」のことね。どちからというと「少女性」みたいなもんかな。。
何があっても「少女である」と小さな胸をはって吹き飛ばす勢いって、やはりそれだけ少女達の居場所が当時はなかったための反動だろうなと思う。
あのころ読んでもう二十年近くたっちゃうのね。。
と思って本屋で探しても「野溝七生子」の本は本当に少ない。「山梔」はあるけど、「ヌマ叔 母さん」も立風書房の作品集もない。
ああ。。また欲しい本が増えてしまった。。。
numa_obasan
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