オルゴールの部屋の横に入ったら、誰もいなかった。
入り口近くに置いてある、鏡の箱に入れられた、前身人間、後ろは獣の顔をつけた人形の禍々しくも愛らしい姿に微笑んで、ふと部屋の奥に目をやって、凍り付いた。
乱れた古着の着物を幾重にもかさねた重みに耐え、ふらりと立つ大きな人形。 後ろにはうすよごれた古い屏風。
少年とも少女ともつかない彫りの深い顔だちにかかる乱れた銀髪。かすかに傾いだ顔からは、何の表情も感じ取れない。
すさまじい。
全身からはり巡らされた結界。
見た場所から、縫いとめられたように一歩も動けない。
必死で歩いて近付く。表情を見ようとするが、近寄れない。
ようやく4歩くらい離れた場所で顔をみる。
見ようとするが、どうしても顔を凝視できない。
見つめようとすると、全身に戦慄が走った。
よろよろと後ずさって、数メートルはなれた場所に置いてある椅子に腰掛けた。
顔の表情をうかがいしることができるギリギリの距離。
けれど、そこからでもはっきりと人形から発せられる強いエネルギーを感じ取る。
吐き気でこめかみが圧迫される。
他の場所で休んでは、またその人形を見ようと部屋に戻る。
何回も繰り返した。
どのくらいの時間をそこで過ごしたのか分からない。
二人ともふらふらになって会場を後にした。
写真集はすばらしい。
それらの人形を所有しているような、気持ちにさせてくれる。
すべて見たような気持ちにさせてくれる。
けれど、こうして生のものを体験するたびに感じるのは、「ソノモノ」であることの重要さ。
人形は鑑賞するものではない。感じ取るものだ。一緒の部屋にいて、空気を共有し、それの発する波動を感じ取るべき存在だ。
写真は、その波動の記憶を呼び覚ますための道具に過ぎない。
そのことを、今改めて感じた。
本は、どうなんだろうか。。とふと思う。
本は、印刷によって伝えられる唯一の芸術なのかもしれない。
文字、言葉、その紡ぎ出す世界と、人形ソノモノの与える感動は、ときとして重なる。
テキストの与えてくれる感動は、そこから世界を広げてゆくこともあれば、奥へ奥へと導いてくれたり。
けれど、人形の与えてくれる世界は決して広がりをみせないように思う。人形の与えてくれる感動は、そこから奥へと入り込んでゆく。あるいは、人を奈落のそこへ突き落とす。
いや。。。もしかしてまだ、私の世界を広げてくれる人形に出会ってないだけなのか。。
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