昔読んだときは、倉橋由美子の文学論というか、そういう観点で読んでいたような気がする。 この中の表現を使うなら、「本を読むように倉橋由美子を読む」という感覚かな。。
でも、二度目に読んで、そうならもしかして最初の部分、文学論そのものはいらないんじゃないかなと思った。
言葉に対する考え方っていうのはそれはそれで独立して面白いんだけど、それは倉橋由美子の考えというよりも、なんだか少し大学の講義聞いてるみたいな。。。小説書く必要はないのかな?と思わせる無駄が、気になった。あの部分はなぜ必要だったんだろう。。?
ヴァージニアそのものに対しては、私はあまり深い興味を持てなかった。蜘蛛のような女性という記述でちょっと期待して、でもダンという男性にめろめろな彼女に失望。人間的にも倉橋由美子がなぜそこまで彼女に興味を抱いたのか。。と思ったけれど。
それでも、誰かとの出会い、そして過ごした時間を「年輪の一巻」として鮮やかに記憶する感覚にははっとした。
誰かが生きた軌跡を、倉橋由美子はそれこそ本を読むように読んで、その記憶の中に留めたのかもしれない。
kurahashi_virginia
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