夕べパラダイス・フラッツ読了。
硝子生命論を読んだのははるか昔。テーマ的に気に入りそうなタイプだったけどいまひとつ乗り切れなかったので、パラダイスフラッツのほうもちょっと及び腰だった。
でもこっちは面白い!!!
単純に蓄積されていくテキストのバカバカしさにひひひと笑ってしまったわ。
この作品が書かれたころにはまだストーカーという言葉に市民権が与えられていなかった。だから笙野頼子はあえてこの概念をひもといて表現したんだと思うけれど、では逆に今の世の中でストーカーと呼ばれるものが笙野頼子の描く世界に表現されているかというと、ちと違うように思う。方向がおそらくずれたんだろう。笙野が才走りすぎたのかもしれない。
ここで描かれるナウィマチェやストレリチア姫、月読町の人々はいわゆる犯罪レベルのストーカーではない。
むしろ、日常的にどこにでもいる野次馬根性とお節介で生きているような人々の群れ、だと思う。
いや、もっと言うなら、昔の田舎では(今も?)ごく普通のご近所づきあい。その「つきあい」という言葉の裏にぴったりと貼付けられた「人情」という名で人の内側にするすると入り込んでくる好奇心や親切心の粘着性を文章化したといったほうがいいかも。
お葬式は近所の人々が行う。
収穫物はかならず近所にくばる。
お茶と称して一日中たがいの家にふんばってしゃべりたおす。
一日姿をみかけないと「心配になって」と家を訪れる
こういう世界では、自我は無用の長物。いや、むしろ邪魔なだけだろうな。
喧嘩をよびおこす台風の目、かもしれない。
ナウィマチェのどこまでも追いかけてくる(それこそ夢の中にまで)好奇心は人を一個の部品に変える。
人々を人面猫に変える。
人面猫を一匹の巨大な蛇に変える。
ただ、月読町の人々を単なる田舎のコミュニティと断じることができないのは、人々がそれぞれに超のつく自我を持っていること。自我を持ちながら、その自我が何かを象徴するものでしかなく、それぞれの人間を本当の意味で個別化するような性質のものではない。それが怖いところ。それぞれが「私は個性的」と思っている。けれど、全体として見るとそれは個性なんかではなくて、巨大な生命共同体の手足でしかない。しかも、その心臓の健康状態に個別の部品は頓着なくて、いつぶっこわれるか分からない、いつ燃料切れするかわからない自転車操業状態でえんえん走り続ける。
「個性が大事」という言葉。
でも、個性とはなにか?自我なくして個性がありえるのか??個性と自我はどうちがうのか?
強力な自我をもったフラッツの面々。けれど、月野ナツハあるいは日野ルッコラから見たフラッツの人々は、巨大な騒音でしかない。小さなウジ虫が寄り集まってでできあがった巨大な妖怪。
うわー。。想像して気持ち悪くなっちゃった。
(1997年 新潮社 ; ISBN: 4103976020 )
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