松浦作品の中でもっとも読み返すことが多い作品。 文庫本になったときに対談のおまけがついたのもちょっとしたエッセンス。
とても好きだけれどこれまた感想がまとめにくい小説でもある。
私は工也も麻希子もどちらも共感覚えていた。
麻希子に対してはその肉体と精神の不自由さに。そして工也に対しては、その自由さにむしろ憧れるような感覚。
私が工也からどうしても思い出してしまう過去の知人がいる。なぜ彼を思い出すのか、どうも分からなかったけど、彼の歩き方がどこかぎこちない感じがそうだったのかも。。。とふと思った。工也がびっこをひくという表現のせいかなあ。
工也のマイノリティとしての位置って実は麻希子がねたむものだったんだろうと思う。眼にみえる現象としての少数派。
私が工也と結び付けて思い出す知人は、とても飄々としている中に完結した強さを持ってた。 一見傷つきやすいようで、けれど絶対その傷を他人には見せない。見せない努力も見せない。 なんというか、潔い。
工也は潔くはないけど、身体と心を抱え込んでいる自分を「ほらね」と見せることができる。 そういう人って私はいいなと思ってしまう。その奥に入っていくのは実はとても困難なんだけど。。。
私は工也と麻希子は常に背中合わせで互いを盗み見ながら行動していたような気がするのね。だから最後に工也が麻希子と抱き合おうとしたこと、工也のほうは大丈夫で麻希子は駄目だってことは、互いが別の人間であることを痛いほどに思い知らされる瞬間であったと思う。そして背理。彼女は麻希子にとってなりそこねた自分だと思う。だから憎くて愛しい。その麻希子の仮面とも言うべき背理と、背中というべき工也のふたりをああいう形で失うことは、もう決定的に自分が「ひとりで大人になってゆかなければならない」ということへの怖さだったと思う。
ありきたりな解釈だけれど、私は麻希子が感じたのはこの世に一人で生まれ落ちることへの恐怖感だと思ってしまう。
性だとかなんだとかを感じるよりもずっと前の前の段階なのだと思う。。
私は好きなのは、麻希子に背理が口紅と香水入りのジュースを飲ませるところと麻希子を海へ落とすところ。
少しナチュラルウーマンと重なるけれど、背理と麻希子の相互依存関係がとても鮮やかで、読んでいて不快だけれど同時に後からずっと考え込んだシーンだった。
あまり今の私にはかけないかなと思ったけど、書き出したらとまらなくなった。
セバスチャン。初めて読んだときの空気を思い出す数少ない小説のひとつ。
(『セバスチャン』松浦理英子・河出文庫 1992年)
matsuura_sebastian
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