松浦理英子を読むときにいつも意識するのは、自分の性別について。
別に「オンナ」を意識するというのではありません。
「性別」そのものを意識するのです。
その傾向は後の作品になるにつれて更に色濃くなっていきます。
「ナチュラルウーマン」ではむしろその色は薄い。
それは女性同士の愛というテーマのせいなのか。。。セックスそのものを描きすぎているせいか。
花世の愛の形は、私には理解しにくいようで非常に近い。
近すぎて痛く、目を閉じたくなるのだと感じます。
「性別」をそれほど意識しないのに、逆に自分の「女性器」を嫌いになりそうになる。そのパラドックスにはまってもがくのです・・。
対して、「親指Pの修業時代」は、小道具が「男性器」という露骨な性器であるのに、テーマはあくまで精神愛。彼女の描写のテクニックがここにきわまれり・・・という印象があります。
彼女の作品のそこここで描かれるのは、「個としての女性」、存在そのものとしての主人公です。誰かの母でも娘でも姉でも妹でもなく・・・独立した人間としての女性。
泣き笑い怒り生きて死ぬ。
彼女の描く女性たちは、まるでたったひとりでこの世に生まれ落ちたかのような孤独の中で、母性を武器にすることが出来ません。社会の中で抹殺されてきた「個としての女性という性」しか持たない彼女たちは、如何にしてそれを否定しようとする周囲と繋がっていこうかともがき苦しみます。
そして私は、その力強さと、けして儚くはならない意志に限りない愛着と同情を覚えるのです。
時々「松浦理英子は文章がまわりくどい」という人がいますが・・・これ以上分かりやすい文章を書くひとは少ないと感じます。そして、分かりやすい文章以上に説得力ある、危険な刃はないのでは・・・・・・と・・。
natural_woman
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