古い短編を集めたコミックス。
表題作は松浦理英子の「乾く夏」を原作にとっためずらしい作品。
原作は短編とはいえど、十分な文字数と密度を持った小説であり、これを絵と台詞という漫画の道具立てに置き換えることはかなり困難におもえる。なにしろ思い浮かんでしまうのは、世紀の駄作映画「ナチュラル・ウーマン」。で、私は「乾く夏」を原作にした作品がコミックスに入っていると聞いて怖いの半分期待半分。
いざ読んでみると、結構イケてる。
「乾く夏」に限らず、松浦理英子の文章は、文章で読むかぎりギリギリに削ぎ落とした表現とえらぶ言葉の硬質さが、登場人物の異様な設定を裏切っている。どんな題材を描いても冷たいガラスの向こうの炎を見るような、それでいながらその炎の中で焼かれているような矛盾した温度差が癖になる。
やまじえびねの「夜を超える」は、結論から言うと、全く別の作品になっていると感じた。
登場人物ひとりひとりの奇妙な冷静さや臆病さは、まぎれもなく原作と共通のもの。なのに、モノクロームの強調された背景と、一本一本が呼吸しているような有機的な線で描かれた彼女ら彼らは、いじわるそうな瞳の奥に、それぞれの物語を背負っていて、混乱した空気をつくりだしている。
後のやまじえびねの描く女性たちの生々しく乾いているという矛盾した雰囲気が、そこにはっきりと存在していた。
それはまぎれもない、やまじえびねのオリジナルな魅力。
私は彼女の「LOVE MY LIFE」を初めて読んだとき、てっきりこの漫画家は新人なのだと思い込んでしまった。
そのくらいに初々しかった。
その後、色々調べて、実はかなりキャリアのある漫画家であることを知って、とても驚いて、同時に不思議でならなかった。
この率直さはなんだろう?
この新鮮さはなんだろう?
前のコミックス、「Sweet lovin' baby」と、この「夜を超える」のふたつの短編集を読むと、彼女がものすごく長い間迷い、探り、試し、冒険してきたことが分かる。
現在のやまじえびねが描いている漫画のほうが、確実にシンプルで、心にストレートに響く。
今の彼女の表現方法が、こういった短編での試作の日々の結果なのだとして。。。。それでも残るのは、なぜこんなに試行錯誤しながら、どう見ても180度違う作法をくりかえし試しながらも、みずみずしい感性を保っていられるのか。。。?
「確かにこのひとは狂っている。なぜそこまでしてしつように自分の血を見ようとするのか」
自分の表現方法を模索しつづけるやまじえびねの血は、おそろしく澄んでいそうに思える。
見てみたいような。。見たくないような。。。
(祥伝社・2003年10月刊行)
yamaji_yoruwokoete
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