「フライドグリーントマト」という小説があります。
私はこの小説の持つウェットな空気や、時代の息遣いを感じさせる筆致がたまらなく好きで、またこの小説を映画化した作品もまた、登場人物の生き生きした描写を堪能できるものだと感じています。
ことに、奴隷制度が色濃い時代から現代への橋渡し役として命を与えられたニニーという老婦人と、彼女を通じて古き良きアメリカに思いを馳せるイブリンの心の交流は出色です。
昔生きた少女たち、イジーとルースの笑顔と笑い声が聞こえてくるようなニニーの語り口に読者は引き込まれていきます。
この小説の骨子を支えるのは、イジーとルースの愛情関係、そしてそれを思い起こすニニーとイブリンの世代を超えた友情ですが、同時に忘れてはならないのが、イジーとルースの関係をより強固に結びつけた事件です。
夫の暴力に耐えかねて家を飛び出したルースを、ストーカーと化した夫が襲います。その夫を、イジーたちの家の下働きをしていたビッグジョージが殺してしまうのです。
この事件を追いかける刑事と、イジーたち(イジー、ルース、ビッグジョージ、ビッグジョージの妻のシプシー)の間で行われる丁々発止のだましあいがこの作品のひとつのポイントです。
ビッグジョージの殺人は、雇い主であるイジーとルースを守るための行動であり、ここに南部に色濃い奴隷制度のなごりが明らかに影響しています。
ルースのために殺人を犯したビッグジョージと、彼をかばうイジー、ルースの間には奇妙な同盟意識が芽生えます。けれど、これは決して対等な友情ではありえません。なぜならば、ビッグジョージが殺したと知れれば形ばかりの裁判で確実に死刑となります。白人を殺した黒人を生かすことは許されない時代では当然のなりゆきです。
そもそも搾取する側である白人の主人を、なぜ黒人のビッグジョージはかばったのか。
なぜルースのために自分の命を危うくする犯罪を犯したのか。
そこにこの作品、この時代の弱点があるように私には思えました。
奴隷制度の中、白人の裕福な家庭では黒人を家族ぐるみで雇っており、黒人は白人に雇われるしか生きてゆく道がない社会でした。
そういう環境の中では、雇い人である黒人は白人家庭の中に溶け込んでゆき、やがて白人家庭の財産の一部とみなされるようになります。奴隷を雇うことは当時の白人にとっては当然の権利であり、イジーもルースもそういった古い時代からの風習の残る家庭の中で当然のこととしてビッグジョージたちを受け入れてきました。
イジーはビッグジョージを兄弟のように受け止め、ともに育ちつつも、同時に当たり前のように彼女はビッグジョージの主人であったのです。
そういう中、事件は起こりました。
イジーと兄弟のように暮らし、彼女の言葉を自分の言葉として息をしてきたビッグジョージは、しかし殺人により明らかな「違い」を認識するのです。
ビッグジョージは黒人であり、イジーは彼の主人である。
もしこの事件が、ストーカーに襲われたのがシプシー(黒人女性)であり、襲った男も黒人、シプシーをかばったのがイジー(白人女性)であったらどうだったか。。。ということではっきり答えは見えます。
イジーとビッグジョージの間に流れていたのは、純然たる友情ではなく、奴隷であるビッグジョージが主人を守っただけ、白人であるイジーがその所有物であるビッグジョージをかばっただけとも言えるかもしれない。
そこで、自問してみました。
「この作品が好きだということを、アフリカ系の友人に言えるかどうか」
悩んで出た答えは、「No」でした。
ビッグジョージがルースのために人を殺し、イジーが彼を庇うという筋は、どうかすると奴隷制の美化とも見えてしまいます。ビッグジョージは虐げられた奴隷であり、イジーは搾取する白人なのです。
一時私はこの本を自分の中で封印しました。
何が私の目を塞いでいるのか、確かめるために。。
そうして、半年ぶりほどで、小説「フライドグリーントマト」をひもときました。
ホイッスルストップの小さな新聞の報じる、イジーとルースのカフェ(ホイッスルストップカフェ)の開店。
ルースの小さな息子の成長。
ビッグジョージの美味しい焼肉のこと。
不幸な事故。
読み終わって感じたのは、やはり変わらない爽やかな風でした。
なぜなのか考えたときにふと思ったこと。イジーは、ルースは、ビッグジョージは、シプシーは、この物語の中で確実に時代を生き抜き、その空気を吸って、風の中になじんで生きた人物たちです。
ルースという女性を愛するイジーは、その時代の異端児であり、決してメインストリームには属することはできないことを十分自覚しています。それゆえにビッグジョージとの関係もふつうの白人と黒人という形からは逸脱していくのが、小説の中から感じ取れます。
結婚という形からはみだしたイジーとルースの関係は、「確実なもの」を目に見える形ではもとめず、二人の関係性というとても曖昧で不確かな糸の中に見出します。
奴隷制度もまた、イジーとルースにとっては、「目に見えるけれど不要な形式」だったのかもしれません。
イジー、ルースとビッグジョージの関係は、やはり、雇い人と奴隷です。その事実は変わることはありません。
けれど、主従関係を超えた関係がビッグジョージとイジー、ルースの間には流れていた。
男社会の南部で、女同士結びあった堅い愛情で結ばれたイジーとルース。
彼女らを助けるビッグジョージ、そしてホィッスルストップの人々。
私の中に聞こえるイジーとルースの笑い声は、「社会なんてくそくらえ」とばかりに響き渡るのです。。
ホイッスルストップカフェの扉は、誰にでも開いていて欲しいと願うばかりです。。
idgie_biggeorge
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