いきなりアニメの話で恐縮です。
表題の作品「エヴァンゲリオン」は一人の少年の内的葛藤、父親との不和や母親への思慕が全世界と戦うための力に利用されてゆくという悲劇を描いています(これは私の作品感であって一般的なアラスジとは異なります)
5、6年前にこの作品が男性の間で大ブームを巻き起こし、アニメのみならずファッションやあらゆるマスメディアで取り上げられ、果てには外国にまでその波が及んだときには、私はこの作品に全く興味がありませんでした。
外資系の最先端といわれるIT企業のおっさんたちが目の色を変えてアニメの話をし、徹夜で総集編を見たとかなんとか職場で語り合っているのは異様な光景でしたが、それでも気持ちを惹かれませんでした。
一緒にカラオケにいくと「エヴァンゲリオンの主題歌歌って」とリクエストされる(主題歌は女性歌手が歌っていたので?)けれど、当然知るわけもなく。。
そうしてブームが去ったころ、初めて私は作品をビデオで見ました。
何週間かかけて、十本以上あるビデオを見て。。そのとき思ったのは、
「なんだ。。こんなこと、もうはるか昔に抱えていた悩みの焼き直しみたいなものじゃないか」
ということ。
主人公シンの持つ葛藤や苦しみは、思春期に悩みぬいた自分のものでもあったから。そしてその程度のことはおそらく誰でも共感できるレベルのものとしか思えなかったのです。。それがなぜこんなオトナたちの間でさえ一大ブームを巻き起こしたのか。。アニメを見ても全く分かりませんでした。
私の周囲でブーム当時エヴァンゲリオンにはまっていたのは、一人残らず男性でした。エヴァンゲリオンを作った監督も男性。
アニメの中で繰返し繰返し流れてゆく映像は、あるときは30分まるまるが主人公の心象風景であったり、わけの分からない物体の羅列であったり。。。確かに普通の「ロボットアニメ」とは違います。
私がこれらを見ていて感じたのは、衝撃ではなく、見慣れた光景だなあという共感だったのです。
なのに、元少年たち現在おじさんたちは、いとも簡単にこういう映像に打ちのめされる。主人公のつたない独白に、常軌を逸した言動に、アドレナリンがあふれ出す。
もしかして。。。こういう心象風景を、多くの「少年」は見逃しているのかもしれない。。
自我の中でふわふわと漂い、悩み、苦しむという作業を、もしかしてこの社会は男性に対して許していないのかもしれない。。
などとふと思いました。
オトナは子どもに対して、「子どもらしく」あることを求めると同時に、より「男の子らしく」「女の子らしく」あれと刷り込みます。
例えば女の子には人形を買い与え、男の子には野球のボールとバットを持たせる。
家の中で本ばかり読んでいる男の子は「男の子らしくない」と心配されてしまう。
女の子は空想にふける自由を与えられ、男の子は一瞬たりとも考える時間を許されません。
私が小学生だったころ、ある一時期空想によくふけっていたのですが、それを目にした父が母に言ったそうです。
「ああやって女の子は成績が落ちていくのかなあ。。」
成績がすべてかい(没)。という点はともかく、空想が女の子のものであるということは古今東西で信じられている迷信です。
けれど、逆にジェンダーの押し付けにより、空想に遊ぶことのなかった男の子たちはやがて、想像力の翼をもたないままで社会の中にとびだってゆき。。。
内的成長はとどめられたままで体ばかりがオトナになってしまいます。
先日、親をバットで殴り殺した男性の動機に、エヴァンゲリオンの影響があったとする検察の論告がニュースになっています。
万が一、この論告が認められたとしても、問題はアニメという一つの伝達方法にすぎないメディアが、一人の少年の行動の方向性を決めてしまうほどの影響を持つ社会背景にあります。
想像する余裕を奪い、葛藤する時間を塾や勉強にとられ、「男らしく」あるために人格をゆがめられ、やがて心の柔軟性を失ったまま大人にならねばならない子どもたち。自分のうちと外の間での微妙なコミュニケーションを取って、それらの間に立つ壁を認識する能力を培うべき時期に、何もしないまま作られてゆくオトナという名前の成長しない人間たち。
彼らが、何をしても自由なアニメーションの世界の中で、思うままに悩み苦しみ閉じこもった結論を導き出す主人公の少年を見て何を思うのか。。
もっと「男らしさ」「女らしさ」よりも「人間らしさ」を重視してくれていいのじゃないでしょうか。。?
思い悩むのは、本を読むのは、想像して楽しむのは、苦しむのは、すべて人間にしかできないことなのだから。。
evangelion
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