久しぶりに読む中山可穂の新作短編。
とにかく一字一句をなめるように拾いながら読んでいく。
砂地に雨粒がしみていくように、言葉が染み渡っていくのを感じながら、あらためて私は中山可穂のファンなのだなあと思い返す。飢えた子供のようにむさぼり読むというのが正しい。
隅田川、という地味なタイトルに似つかわしくない、後光がさすような美少女が登場したところで、もうしっかり心臓を掴まれている。。。
何が好きと言われて、困るくらいに中山可穂の小説には言いタイ文句が山ほどある。いつでも。なんでそんなにこだわるのだと自分でも不思議なほどに、中山可穂の小説には毎回怒りをぶつけてる。それでも、新作が出るたびに私は安くない分厚い小説誌を買ってしまう。
ほんの数十ページを租借するために。
確かに中山可穂は貴重なカムアウト済みの作家だし、演劇をやっていたという経歴や、書く文章のタイプも好みには違いない。
けれど。。。。
やはりセクシャルマイノリティを描くことの多い松浦理英子の小説を読むとき、私はこんなふうではない。他の作家がゲイやレズビアンを描く本を書店で手に取ったら、買うかどうか考える前にレジに並ぶようなことはしない。
高い新刊のハードカバーを、解説を開きもせずに財布のひもをゆるめるのは、本の中にインクの匂いを閉じ込めたままに、鞄に大事に入れて帰宅するのは、中山可穂という作家の本に対してだけになってしまってる。
その秘密は、今回の短編の前半に詰め込まれている。
にぎわう繁華街。少女が二人、堅く手を握りあってさまよう。魂をわけあった少女が二人、ゲームセンターのマシンをバットで殴っている。
無心に。
とがめられると、とがめた相手を射殺すような視線で突き刺して、手に手をとって、道行き。
溜息が出る。
この、ページにして、数ページ。
これだけで良いのに。
この情景。
この情景だけで一冊の本がかけるのに。
まだ、書いてしまうの。
今の中山可穂は、その少女を見ている自分を。
そしてその自分がどんなに遠くに来てしまったのかを、くどくどと並べてしまうのだ。
中山可穂が本当に書くべきは、ゲームセンターの少女たちの核なのではないのか。。?
彼女らをとりまく大人たちの吹きだまりみたいな人生は、ただの外野ではないのか。。?
ふと、マラケシュ心中でも感じた、微かな不安が過る。自分を慕う少女を遠い目で見る絢彦に、どこかたまらない焦れを感じていた私。。それは、主人公の目ではないでしょう。。?
それとも。
本当に中山可穂は、それほどに乾いてしまったんだろうか。。。?
kaho_sumidagawa_kanso
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