「百合姉妹」以来(笑)、ひさしぶりにまめに漫画コーナーやいわゆるボーイズラブコーナー(汗)をチェックしているあやしい私です。
そういう中で、「百合姉妹」にも描いていた人のコミックスを見つけたので購入してみました。
結論から言えば、
「そうか。。これが世間的にいう『百合』なのかあ。。。(落胆)」
肝心なのは最後の(落胆)の部分であります。
紺野キタという人の「Cotton」という作品。
もともとは同人誌で出していたものを商業誌の編集者に拾われてコミックスになったという再録モノ。これをもし同人誌で読んでいたとしたら、また印象は違ったかもしれないと思います。
女子高生の思春期に翻弄されるOLのちょっと切ないノスタルジーとして。。それはそれで、まあ。。。といえたかも。。しれない。。自信はないけど。少なくとも、期待はしなかったかも。
以下ネタばれですので、同作品を読んでみようというかたはご注意。
出会いはOLが彼氏と別れて泣くことさえできない状態でいるときに見かけた、雨の中傘もささずに立ち尽くしている女子高生。その表情の凛とした空気に気持ちを動かされて、枯れていたはずの涙がこぼれるというシーン。
それは、おそらくは年齢差を越えた出会いを示唆していたと感じます。
そして、引きこもり状態になった女子高生を、OLがなだめるという展開の中、女子高生はバスルームで、
「自分の中の嵐をどうしようもないんだ」
と泣き叫び、OLは彼女を受け止め抱きしめるというシーンへとストーリが流れていきます。
私はここで、とんでもない勘違いをしてしまうのです。
対等な出会いをし、相手の嵐を受け止めた関係=恋愛への発展の予兆である。。。と。
はてさて、この二人はどうなるかというと。。。細かくは描きませんが、この女子高生が後日談の中で、自分の兄とOLをくっつけようと画策し、その理由が
「そうすれば一緒に住めるから」
て。。。。。実に私はこの台詞を読んで初めて、この物語が恋愛ではなく、単なる反抗期の少女が不器用なオンナに自分の不満をぶつける話だと気づいたのでした。。。
少女期の自分本位な行動というのは、その時期を通り過ぎた人間からすれば、単なる幼さにしか写りません。その幼さを「自由さ」と感じるには、少女自身の成熟度がずば抜けているか、あるいは大人の側が果てしなく成長を止めてしまった人間でなければならないように感じます。
おそらくこの作品のケースでは後者だったのでしょう。。。
なぜ「少女期」あるいは「少年期」を描くとき、多くの人が「discommunication」そのものを素材のままに描くのでしょう。たまたま同時期に読んだ、おかざき真理「雨の降る国」も同じだけれど、まるでコミュニケーション不全が少女期の特権であるかのような大人からの羨望さえそこに見え隠れします。
私の思う少女期の特権は、「コミュニケーション不全」そのものではなく、「コミュニケーションのつたなさを突き抜けるほどの熱情と、すべてを破壊しうるほどの、同時に破壊して包み込めるほどの深く激しいエゴ」
なのだと思うのです。。
だってね。
コミュニケーションが成立しないままでうろうろしているだけなんて、今ドキの大人と全然変わらないじゃない。。?
と書いて気づいた。
なんだ、イマドキの大人って、コミュニケーション不全なままで育ってしまった、行き所のない青春のかたまりなのね。。
。。。。。「百合」のみなさん、ちゃんと恋愛はしよーよ。。
cotton_konnokita
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