飽きもせず、トーベヤンソンコレクションを継続して読んでます。
現在読んでいるのは「人形の家」。
ヤンソン作品をまとめて読むと気づくのが、作家自身が気に入って何度も書くモチーフやエピソード。それらはたいていトーベ・ヤンソンの身に実際起きたことと思われ、それもまるっきり同じ使い方で無関係な別の小説の中に出てきたり。。
トーベとトゥーリッキの父親が双方ともヴィクトルという名前だったことや、トーベのカリンという従姉妹のこと。トーベの母親のガールスカウトのこと。父親のペットだった猿のこと。
一瞬ぎょっとするけど、ほとんどすべての作品が一種の私小説とも取れることを思うと、必然なのかもしれない。。
この短編集の中、思わずにやにやしながら読んだのは、表題作「人形の家」。
この主人公の男性二人は、ヤンソンが繰り返したモチーフのひとつである、自分自身、そしてトゥーリッキとの関係をすこし毒々しくデフォルメした写し身といえると思う。
何ににやっとしたのかというと、この二人が20年一緒に暮らした友人同士であること。そして、彼らがときおり夕食をともにする(小説の中では一度も出てこないで、話題だけが出てくる)友人二人との友達のような半分家族のような、けれどどうでもいいただの近所づきあいのような、微妙な関係性。この友人がひとりひとりではなく、二人一組というところがまたミソ。
そして、二人の間に入り込んでくる片方の友人とのぎくしゃくした駆け引き。
パートナーと、その友人の親密な仕事のようすに心穏やかでないもうひとり。次第に高まる一組のカップルとその友人との間の緊張感。
延々と友人と人形の家を作り続ける一人の狂気じみた偏執ぶりに、ついつい自分を重ねる。
何を作っているのか当人も知れないままに、ただひたすら自分のこだわるものを作り続ける。自分の見ている方向さえ見えないのだから、むろんパートナーの心配などどこふく風。
最後に何が起こったのかはおいておくとして、結末にはさらににやり。
とても訳者がよく使う表現「どうとでも取れる」話とはいえないよね。。
それにしても、カップルの友達はなぜカップルなんだろう。
トーベとトゥーリッキがモデルと思われるキャラクターたちはいつも、その場にいない「友人たち」や「友人カップル」のことを語るが、たいていの場合その姿は作品中にはあらわれない。
主人公たちは巧みに、あるいは不器用にそれらの「友達づきあい」を遠ざける。
それで平気なのかというと、どうもそうではないらしくて、彼女ら彼らはどちらかが遠ざけたことに対して不安や後悔を覚える。
「個であること」にこだわったトーベといえど、そういった「おつきあい」の呪縛に不自由さと心強さの両方を抱いていたのかしらん。。
ふと、妙な親近感を覚えてますますにやりとしてしまった。
(トーベ・ヤンソン・コレクション5「人形の家」・1997年刊・筑摩書房)
tove_ningyo
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