今日の通勤電車からメイ・サートン「独り居の日記」。
実際のところ私は一人ではないし、感覚としては結婚している状態に近いと思う。社会的にはいわゆる「独身女性」なんだが。ひじょーに矛盾している。
そこで、またもメイ・サートン。
出だしから彼女の「独りでいること」の重要性についての一文。
独りでいることは必要といっても、決して人との交流を拒んでいるわけではない。
非常に重要な友人が複数名いるし、彼女ら彼らとの交流は深く永きに渡る。
メイ・サートンにとってそういった交流もまた、孤独な時間あってこその楽しみとなる。独りであって、たまらない寂しさに苛まれながらも、花は独りでいるときこそ本当に花としての存在を認められ、人生は独りの時間にこそ育まれる。
彼女の人々に注ぐ視線は熱く優しい。
浅く広く、携帯のアドレス帳を埋めて容量限界まで「メル友」を増やしている人とはちがい、ほんの両手に余る程度の友人と、ギガバイトで計れない重さの交流を繰り広げている。
花を花として愛で、人を人として愛する。
電磁波と愛を混乱させる現代人となんという違い。。
それでも彼女は、彼女の時代のディスコミュニケーションを嘆いていたことを考えれば、こうして進歩しているかのようなグローバルコミュニケーションは、深みを次第に無くしている道筋にすぎないのかもしれない。
私がメイの時代の女性たちに強く親しみを覚え、惹きつけられるのは何の縁なのか。
女性が人間であることに目覚め、息を吹き返し始めた時代。
誰かの、何かの付属物ではないひとりの人間として歩き始めた時代。
自ら選んで社会的孤独な道へと入っていった女性たちと、見えない糸で繋がっていたいと私は願う。
あくまで見えない糸。
決して共同はしない、見えない糸で常に彼女らを讃え、自分を鼓舞していきたい。
hitorii_sarton
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