2月14日のことじゃなくて。。
「残酷な神が支配する」でジェルミを救うひとり。
いや、結果的にであって、当人がそうしたかったわけじゃないけど。。
ひとつ断っておきたいのが、この話って決して「グレッグのジェルミ虐待」の話だけじゃないってこと。
ジェルミが殺したもうひとりの親、サンドラとジェルミの物語でもあって、この母子関係なくしてグレッグのジェルミへの継続的な暴力は成立しない。
イアンの存在がジェルミの装置として働いてしまったのは、漫画だからというよりも萩尾望都だからという気がする。
要素が薄くなったのは、あの冗長な展開ゆえだよねー。。残念。
話を劇化しすぎているとヨルは感じるのかあ。。私は前半(最初の部分)については同感。でも、実は必然性あっての劇化だと思うんだー
大の大人が義理の息子をレイプするという衝撃的な設定は、連載開始当時いわゆる「やおい」全盛で商業誌にもパロディとしか思えないポルノまがいの漫画が溢れたころ、萩尾望都なりの少女漫画へのアンチテーゼをこめたものだったように思う。また、その昔描いた「トーマの心臓」がテーマとはまったく無関係の部分で「少年愛=JUNE」の元祖のひとつのように取られ、やがて「やおい」テーマへ広がったことに対する彼女なりの責任の取り方でもあったのではと。。
だから、ジェルミや義兄イアンは少女たちの受け入れやすい、愛らしい少年ではあるけれど、父親グレッグはまったく世のやおい少女たちに嫌われるタイプのマッチョ&気持ち悪いキャラクターに設定し、それぞれのキャラクターよりも展開の激しさで読者をひきつけ、妄想の入る余地がないほどに残酷さを強調したんだと思う。
ただ、あまりにもドラマチックすぎて読者にこの作品を「新手のジェットコースタームービーか?」と勘違いさせてしまったんだが。。
萩尾望都の狙い(?)は当たって、やおい少女たちはグレッグとジェルミの間に近親相姦もSMも感じ取ることができず(あれだけ暗示させる場面が出てきているのに)、ましてや自分たちのオカズになりそうな「ロマンチックなゲイ」の要素なんてカケラも見出せなかった。
あくまで「暴力」としての性。
そして、「男女の社会的地位」を絡めたくなかったから「父娘」ではなく、父子という仕掛けを選んだだけ。このあたりは松浦と同じような。。
最初に書いたように、問題はこれだけではない。
ジェルミは子供のような母サンドラによって、「幸せな家族」の絵を刷り込まれている。その呪縛が、グレッグに「No」を言うことにストップをかける。
グレッグはレイプという暴力で、サンドラは愛情の名を借りた同化により、二人の共謀はジェルミを次第に締め付け、追い詰めてゆく。
その末路はジェルミの心の死と、グレッグとサンドラの肉体の死。
肉体を失った二人はその後、ジェルミの心を亡霊となってただただ追い続ける。
ここで現れるのが(ようやく)バレンタイン。
あるいはナディア。ポピー、マージョリー。
そのほかもろもろのジェルミの闇を知らず、あるいは知っていてなお引きずりこまれない人々。
イアンはジェルミを否定し、絶望を更に深くした贖罪の気持ちからジェルミに手を差し伸べてゆき、やがてジェルミの闇に飲み込まれてゆくけれど、バレンタインを初めとする彼の闇の外の人々は決してジェルミの闇に入り込まない。
入り込まない外から、ジェルミをただ見つめる。
決して励まさず、決して手を出さず。。。ただ、彼が一人立ち上がるのを待っている。
昨日ヨルと話していて話題になったんだけど、私は実際のところジェルミを助けたのはイアンだとは思っていない。
イアンの役目は誰でもできた。
極端な話、グレッグ自身でもよかったし、サンドラでも良かった。
彼の闇に共に飛び込み、彼とともにのたうち、窒息しそうなときに共に失神して。。
けれど、ジェルミの闇の外にいた人々は、それぞれがそれぞれでなければならなかった。それぞれが一人一人独立して、互いには無関係の悩みを抱え、自分のことで手一杯な中、ジェルミをそっと横目で見ていてくれる人。
物語の最後、ジェルミにはバレンタインが、イアンには新しい恋人が出来たらしい展開で終わる。
人生の道のりを共にする人間同士は、同じ闇を見る人間ではないほうが、ふさわしい。
イアンはジェルミと同じ闇から生還してきた。
二人の闇はきっかりと別れ、それぞれの心の中に戻ってきたのだと思う。
人がそれぞれに、違う闇を抱えてすれ違ってゆく。
ジェルミという人間の魂が、悲しくつぶされた。。その物語が明るい終わりにはなりえないけれど、この後少しでも、彼の心が闇を受け止められるよう、祈りつつ。。
zannkokuna_kami_valentine
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