ヨルの愛読書であることを知りつつ、読まずに四年以上。
そろそろ読まねばならぬときのような気が何気なくして、今週から山妣by坂東真砂子を読んでおります。
まだ三分の一ほど。
正直、読みながら私の体がバラバラになるような感覚で読み進むのが辛いです。
いや、バラバラというよりもぐちゃぐちゃというか。。。内臓に木の切れ端をつっこまれて掻き回されているような感じ。うーん。。。。ほんと辛い。
私は涼之助をそばで見る側の人間だと感じる。
男でもない、女でもない涼之助。
彼を利用しようとする扇水、てる、そして姿を消した彼に阿弥陀如来の姿を見る琴。
人それぞれの、どうしようもない思いと利害が絡み合い、涼之助という人間を亡霊化してゆく。当初はほんの小さな、肉であったり欲であったり、あるいはほのかな信仰心であったり。誰もが持つささやかな気持ちがひとりの人間の人生を狂わせてゆく。。。
あたりまえだけれど、人生には本当の意味での「悪漢」や「善人」はほとんどいはしない。
それが存在するのは物語の中だけ。
誰かの、ほんの少しの思い込みや、怒りや、悲しみ、あるいは幸せが少しずつ、少しずつ、誰かの人生を動かして、あらぬ方向へとすすめていってしまう。
そんな中で人は生きねばならない。
人は、人のささやかな善意と、悪意と、興味と、愛と、憎しみの中を、自らの人生泳ぎぬかねばならない。
涼之助が多くの人にとってのさざ波を、津波のように受け止めねばならないとしたら、それはやはり彼の身が人の枠から離れたせいだろう。
人は人をありのままには受け止められないよう、できている。
まずは小さな自分の枠を作らねば生きてゆけぬよう、できている。
涼之助と同じく多くの人の枠から外れてしまった私は、私の枠を作らねばならない。
けれど、私は涼之助ではないし、琴でもない。てるでもない。
敢えて例えるなら、涼之助のそばで、彼とともに津波を受ける人間になってしまうのか。。
いや、やっぱり私は私の波を超えてゆきたいのだけれど。。
昨日は帰り道の電車で読みながら頭痛に襲われた。
続きは帰って読もうか。。どうしようか。。
yamahaha
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