今朝からトーベ・ヤンソン「聴く女」を読んでます。
老いはじめた女性がみるみる美徳を失ってゆく姿を描いている。
もともとあるかないか分からないくらいの美徳しかほとんどの人にはないと思う。自分自身も含めて。
ただ、たったひとりの相手や大切な相手にとっての美徳さえも、老いには勝てない。
老いさらばえる前にと、自らの記憶を辿り、必死で人間関係を一枚の羊皮紙に書き付けてゆくイェルダ伯母。まるでその人間関係のみが自らの財産であったかのような執着。その関係性のみが自分の「美徳」を証明するなにかであるかのように。
クレヨンで次々と書きつけてゆく姿に、鬼気迫るものを感じる。
過ぎた美徳をもとめる人は、不自然に映る。
その美徳を他人に認めてもらおうとあの手この手を駆使する人は、不自然を通り越して醜悪。。
クレヨンで自らの人生にかかわった人々をひとりひとり色分けしていったイェルダ伯母は、完成間近、すべての人からの誘いを断る。
そうして出来上がった羊皮紙を満足をもって眺め、自らの死後は誰の目にも触れないよう配慮してしまいこむ。二度と彼女がこの人間関係の地図を開くことはないだろう。。
彼女が描いた地図は、あるいは彼女の人間関係への執着を振り払うものだったかもしれない。
最後の自立を勝ち取るための梯子だったかもしれない。。
私にはほんのわずかの美徳もないかもしれない。。
けれど、ヨルが、数少ない友人が、私のこととは無関係に、あるいは関係をもちつつ生きて、それぞれの思いを持って接し、結果的に支えられているという事実が、わずかに気持ちを暖める。。
私はまだ地図を描くには早い。
いつか私も、このテーブルに向かい、瞳を人生への執着にぎらつかせながらクレヨンを選ぶときがくるんだろうか。。
それでもいい。
最後にその地図を、飾らずしまうか、あるいは焼き捨ててしまう心意気を残しておけるなら。。
jannson_kiku_onna
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