とある人の弁。
「松浦理英子にはホモフォビア(同性愛嫌悪)のにおいがあるような気がするのは気のせいでしょうか?」
ヨル、「気のせいじゃない!!」と強く頷いていましたが、私はふに落ちるような落ちないような。。。と思って夕べお風呂で「セバスチャン」の最初の部分を読み返してみました。
五、六年前までは何度も読み返した大好きな作品だったけれど、この二年近くはほとんど読み返してなかった。
そいでもって久しぶりに読んでみたら。。。
がびーーーーーん。。。辛い。読みにくい!!!
かなり好きな作品だったはずなのに。。
麻希子(字あってたっけ?)と背理の関係。。。
背理の女王様願望はその馬鹿馬鹿しさゆえに理解できる。本人が所詮自分はお山の大将だと知っているから。
だから「終わり」をつけることができる。友情というずるい隠れ蓑に摩り替えることができる。
でも、麻希子は違う。
彼女は最後まで自分は女王様に傅いているのだと思い込んでいる。思い込んでいたい。だからエンドマークに納得できない。
背理と麻希子の遊びは二人が同意していたからできた遊びで、おそらくその関係性の真実は、周囲が話していた「あの二人はあれで満足なんだから」が一番近い。
どちらも傲慢。どちらも馬鹿。
でも、理解できない、辛いのは上二人の関係性ではない気がする。
なんといえばいいのか。。
松浦理英子自身がナチュラルウーマン発表当時に言っていた、なぜレズビアンを主人公にとるのかという質問に対する答え。そのあたりにキーがあるような気がする。。
彼女は、男性と女性のジェンダーロール、それとセクシュアリティにまつわる社会的な位置の違いをできるだけ排除した状態での人間関係を描きたいとインタビューで語ってた。
当時はそれを私は好ましく思ったのよね。
私自身、ジェンダーロールに拘りたくないと思っていたから。
今はそのころに比べるとより強くその思いは持っていると思ってる。
けれど変わったのは、セクシュアリティに対する自覚。
自覚せざるを得ない状態に陥っているのよね。。
結婚しないこと。
同性のパートナーと暮していること。
お互いの親と接する機会もそれなりにあること。
そういう環境はどう頑張っても社会のいう「家族単位」の枠からは外れていることをまざまざと思い知らされる。
なぜそういう生活を送っているのか。
そのギモンが自然と私自身のセクシュアリティへの自覚を促すことになったのだと思う。
結局自分自身で責任を取るしかないもの。。自分の人生。
そうしてセクシュアリティに自覚を持ったことが、松浦理英子の小説の手法にひっかかりを覚える原因かもしれないと、ふと思う。
彼女が描いているのは関係性としては同性愛かもしれないけれど、そこに彼女たちの生活があるかというと。。。。うーーん。。微妙。
女性同士の同性愛を社会性だけで捉えているような気もする。。
そもそも松浦理英子を「同性愛」という側面で捉えることは大きな誤りだよね。。彼女の小説手法を考えてみれば。
麻希子と背理の関係性になにやら嫌悪感を覚えたのは、そこにあるのが「愛」ではなくて「関係性への愛」のように見えたせいかもしれない。。
ちなみに私は「裏ヴァージョン」、結構好きでした。>ふーぺんさん
でも、このような状態なので今読んだらまた感想は違いそうな気がします。。
あーあー。。。なんだかだまされた気分なのだ。。
(松浦ファンの方にはごめんなさい。。。)
sebastian_saidoku
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