ムーミンに出てくるスナフキンの本名。
スナフキンは英訳するときにつけられた名前。
確かにスヌスムムリクでは日本人は舌を噛みそう。でも、こうして書いてみると「スヌスムムリク」は「スヌスムムリク」でしかなく、「スナフキン」は単なるデフォルメのように思えてくるのが不思議。
ユリイカのトーベヤンソン特集号をぱらぱら眺めていて、ヤンソンのインタビューが目に入る。そこに、「情緒的なムーミン」とあってちょっと意外な気がして再度読んでみる。なるほど。家族というテーマゆえに感傷的になりがちな部分を、徹底的に抑え込んでヤンソンは推敲していたらしい。
このエピソードを読んでふと、マイブーム須賀敦子の対談集の中にあった話を思い出した。
須賀敦子が、文学とは情緒的であってはならないという信条をもっていたという。
あくまで生活に中にあり、体験の中にあるものから抽出されたものでなくてはならなくて、どうかしてセンチメンタリズムに逃げ込みそうになる自身を常に鞭打っているようなところが彼女にはあったという。
須賀敦子の著書を読むと私はまず内省的な人を思い浮かべる。
実際には第二次大戦をまたいでイタリア、フランス、イギリス、日本を行き来したような人であるからいわゆるおとなしい人間なばかりではなく、外交的手腕も持っていたに違いないのに、あの淡々とした石畳のような味のある正確さをもった文章を読むと、「私心のなさ」をまず思い浮かべてしまう。
須賀敦子は確かに活動的な、「行動の人」であったらしい。
信義だ信仰だと説いてまわるよりまず行動し、実践することを旨としていたのは、逆に削ぎ落とされた文章に対するストイックさと通じるものがあったのではないかとも思う。
ムーミンシリーズの中でとても好きな「ムーミン谷の11月」はシリーズ最後。
ムーミン谷にムーミン一家はいない。
主のない谷で、知人たちが好き勝手にそれぞれの関係性を築き、去っていった後、ムーミン一家が戻ってくる影だけが小説に残される。
そこに残った小さなホムサが、「不在」と「在」をつなぐ時間軸。
必ずどこかに「教訓」をおかずにはおれなかったヤンソンが、「児童文学」から抜け出た瞬間。情緒の海から這い出てきた瞬間がここにあるように思う。
情緒と抑制。
情緒があるから抑制がある。
抑制があるから情緒が生きる。
情緒と抑制。
情緒と抑制。
どこかに私の抑制のレバーは落ちてないかな・・・・
ぼやきつつ、今日もぼとぼと歩いてゆく。
snufkin_name
最近のコメント