本の賞味期限はない。と、思う。
作家には波があって「この時期のこの人のはどうも」とか、「若いころはいまいちだったけど、年を経たらいい味が出た」とかはあっても、その作品ひとつひとつの命は、一人一人の読者へダイレクトに届く。
だから、本は永遠に凍結されたカプセルみたいなもの。
その本を生み出す時代背景というものに、少々興味を持つことがある。
気付いたのは最近。
私が好きな・・・・というよりもはや愛を捧げている作家を列挙してみる。
トーベ・ヤンソン
メイ・サートン
ヴァージニア・ウルフ
E.M.フォースター
森茉莉
須賀敦子
全員が19世紀終りから20世紀を生き抜いた作家たち。
作家の性別はこのさい横において、気になるのはこの「19世紀終りから20世紀」のあたり。この6人中4人が鬼籍に入ったのはこの10年ほどのこと。フォースターはほぼ同時代の作家だしブルームズベリーグループで凌ぎを削った仲で、道半ばにして自死を遂げたウルフはともかく、フォースターが亡くなったのは1970年。
つまり、みな活躍時期が微妙にずれながら重なっている。重なりながらずれている。ちょうど波紋のように20世紀に漣を広げている彼女らの作品たち。
これらの作品に私が耽溺するようになったのは、この5年ほどのこと。つまり、ほとんどの作家との出会いは、彼女らの死の直後ということになる。
なぜあと十年、十五年早く読みはじめなかったのか。
いや、正確には作品にはすでに馴染んではいた。ウルフを最初に手にとったのは中学生のときだし、ヤンソンのムーミンシリーズは小学生のころの妄想の褥だった。
フォースターは大学生のころにペーパーバックで。
どの本も、ごく平らかに読んでいた。他の本と区別なく。
すなわち、それらと本当の意味で「出会って」はいなかったのだ。
だから、作家が生きていようと死んでいようと、頓着なかったのだ。
死んでしまった作家。
作家がすでにこの世にいない、というのはどういうことか。
新作が永遠に読めない、ということ。
どれほどヤンソンの描く雪景色に閉じ込められたくとも、いかにフォースターの時代の馬車でお尻の痛い思いをしたくとも、ウルフの才気走った筆にうっとりと浸ろうとも。
決して、その続きの夢を見ることはできないのだ。
サートンのネルソンの家をたずねて迷惑がられる不名誉を受けることはできないのだ。
森茉莉@永遠のお嬢さんにファザコン自慢を浴びせられる苦労も、須賀敦子に幻想めいた手紙を送って戸惑わせることもできないのだ。
手紙。
そう、ファンレターという作家と読者を結ぶ赤い糸も、死の前には断絶、しかない。
二度と得られないのが分かっている現世の人間は、それでもなお未練がましく「未発表の」とか「若い頃の習作」などの情報を得ては、ハシタナクも新作の匂いを追い求めてみる。
そして、「ああやっぱり、もうあの作家はこの世にはいないのだ」と実感を深めてゆく。
死んでから他人の手によって発表される作品など、所詮当人が忘れてしまった、あるいは見せたくなかった駄作か、よくて珍作でしかない。分かっているのに、また夢を見たいと願う。
亡くなった作家は、夢の続きをあちらの世でひとり綴っているのだろうか。
生きている作家がどんなに物足りなくても、評価が定まらなくても、一冊一冊を読んでいけるのは幸せなのだろう。同時代に生きるものの特権。
サートンと、ウルフと、ヤンソンと、フォースターと、森茉莉と、須賀敦子と、かすってとうとう出会えなかった私。
その人の「波」ではなく、一作一作としてのその作家を見ていきたいから。
夢の続きを、この世で紡ぎだしてくれている現代作家たちを応援したい。
生きた作家が見る、生きた夢を、見続けたい。
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