ある夜、テレビ番組でアメリカの原住民居留区の人々のドキュメンタリーをやるという情報を得て、楽しみにしていた。
といっても、俳優の窪塚洋介がレポートをする形式ということ。どんなもんかなと思いつつ、なんでも足掛け二年のレポートだというから、多少は力が入っているだろうとテレビの前に座ること二時間。
ナバホの居留区にホームステイして、彼女ら彼らの文化について窪塚洋介が教えてもらう。
さまざまな儀式を目にし、銀と自然石を使ったナバホ・ジュエリーを自分のデザインで作らせてもらうために、そのアイデアを得るためと称して周囲の別の部族の居住区や渓谷を車で巡る。
ナバホ・ジュエリーのデザインにも興味あるし、なんといってもホームステイした家の主人である女性はナバホ織の作家でもある。
神聖な儀式を行うために作られる石と木と水で作ったサウナテントでの時間もまた、興味深い。
でも、番組が終わったあと残った印象は、最後にナバホの人々と別れを告げて車に乗った窪塚洋介。運転席でハンドルに手を置いて、
「お疲れさまでした!なんつーか、一時はどうなることかと思いましたが・・・」
どうやら昨年の事故のことを指しているらしい。
画面はそのままブラックアウト。
二年にわたるロケを終えての正直な感想かもしれない。
でも、このたった数秒の場面を番組の最後に入れることで、全体の印象はまったく変わってしまった。
ナバホの、アメリカ原住民の辿ったつらい歴史を知り、そのもともともっていた文化に触れた旅だったはず、その経験を自分の中に浸透させて広げてゆく旅だったはずなのに、番組はまた、最初の窪塚洋介個人の抱えていた問題にすべてを落とし込んでその時間を終えた。
居留区でのステイはさほど難しいことではないかもしれない。
でも、彼を丸ごと受け入れ、ナバホ族の聖地へと受け入れた人々の思い、そのために費やされた多くの時間と労力、窪塚に見せるためにナバホの伝統の踊りを踊った少年の情熱、そういったものを、窪塚は車に乗ってハンドルを握った瞬間に振るい落としてしまった、という印象を与える。
もちろん旅の終わりのほっとした思いはあるだろう。彼が消化するのはもっとずっと先なのかもしれない。
それでも私が感じたのは、窪塚洋介の、あるいは番組スタッフの、妙に乾いた感覚。
「すばらしいね!」
と感動した次の瞬間にはもう先のことを考えねばならない慌しい人間の、まるでざるに水を注いでいるかのような手ごたえのなさ。
不必要に感動を演出するのは気持ち悪い。
でも、思い出への感慨とともに見送る人々の姿がまだ見える場所で、それらすべてをすぱっと切り捨てる主役の姿を映して番組を締めくくる意図はどこにあるんだろう・・?
自ら「これは作られたテレビ番組の箱の中の出来事でしたよ」と暴露する意図はなんだろう・・・?
あたしが性格暑苦しすぎるだけなのかしらん・・・?(汗)
navajo_kuboduka
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