昨日昼間、一人ぶらりと京橋の因間りか人形教室展へ。
人形を見て感じ取りたいのは、なによりまずその世界観。宇宙観。
作る側にとって大問題であろう技術というのは見る側にとっては最低限のものであって、それを満たさないものは私にとってはまったく無意味に感じられる。問題は技術の後、いったい何がその人形に加味されているのか。いったい何の中心にその人形が位置しているのか。
その点、私にとってほぼ完璧な人形を作る作家のひとりが因間りか氏。
ひとつひとつの細かい技術をとってもきっとすばらしいのだろうけれど、作ったことのない私にはビスクドールの技術の粋を語ることはできない。
私が感じ取ることができるのは、その人形のある世界。その空間には確実に一体の人形が形作る宇宙があり、その宇宙を人形の目は映しているのだ。
教室展の入り口に置かれた一体の少女人形、タイトルを「et Rococo」。
淡い色調の肌色にあわせた、柔らかなベージュのドレスを纏い、糸を複雑にゆるく拠りあわせた鬘を重々しく戴いて、彼女の瞳は虚空をさまよう。人形の等身のデフォルメは、ひとつの神業だと思う。人ではありえない等身を、ヒトガタとして造形してみせる。そのありえない等身の人形の器はどこまでもモノでしかないのに、その瞳がさまよう虚空には、きっと何かがあると思わせる。その周辺に丸く、形作られる小宇宙。中心にある人形は重力からさえ解き放たれている。
人形の作る小宇宙は、ひとつひとつに固有のものに見える。たとえ念入りに作られた丁寧な職人技でも、この宇宙を感じられない人形は私にとってただの「抱き人形」でしかない。いや、それもまた一つの作品には違いないけれど。
私の愛する「人形」はつまり、「人形」を中心とした空間を閉じ込めて作り上げられた、一つの宇宙なのだ。人によってその感じ方は異なる。だから商業物たる人形すべてにきちんと値札がつけられており、その値札に見合った(あるいは値札以上の価値を見出した)と思われる宇宙を感じ取った買い手の元へと旅立ってゆく。
芸術に金額をつけるのを野暮とか不純とかいって嫌う人もいる。けれど、芸術家(作家)は人であり、技術の鍛錬に苦しみ、金に悩み、食うに困ったりすれば当然力も出なくなるこの世の存在なのだ。そのこの世の存在が、別世界へのチャンネルを開く存在(人形やら絵画やら音楽やら)を生みだす奇跡に対して、人々は対価を支払う。その対価を不当だと思うなら買わないだけのことなのだ。
それにしても私はなぜ「人形」という存在に惹かれるんだろう。幼いころからほかでもない人形にかなりのお金と労力を費やしてきたのは何故なんだろう。大人になってさえ、こうして高価なビスクドールの作り上げる世界をまるで自分の夢の体現のように感じてひたすら憧れを燃やし続ける。この一体一体の小宇宙をどこまでも追い求める。私が今回心を惹かれた因間りかのニ体の人形たちはどちらも強烈な個性を放っていた。さらにいうなら、どちらも非売品だった。果てない夢は結局つかめないということ?いや、余裕がさらさらない今だからこそ、こんな夢を追いかけるのかもしれない。妄想に食われる前に、自分の妄想を食い尽くしておかねば。
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