「天使の骨」にはなぜか私の中で雨がつきまとう。
友人を待つ繁華街はずれのホテルロビーで、窓にあたる雨が不揃いのレンズのように風景をゆがめる中、一人ページに埋もれていた。平日のファストフード店でコーヒー一杯、午前中ずっと粘りながら読み倒したときもなぜか店の外はしとしと雨。
暗い室内で机に向かいながらじっと読んでいたとき、傍らにいたのは、今はもういないネコ。外の雨粒を数えているのか、いつも私のそばで窓にはりついていた。
優しく降りしきる雨の記憶とともに、この作品は私の中にある。
作品中、ほとんど雨の場面は登場しない。
唯一印象に残っているのは、主人公ミチルがイスタンブールで行き倒れ同然、現地の少年に拾われる場面。ミチルを死へいざなおうとしたのは容赦ない雨だった。
主人公を死へ引きずり込もうとした雨のイメージを抱きながら、このほのかな希望を抱かせる作品を読むのはなにやら作家への裏切りのような気がする。でも、ふと思えばこの死の淵からの生還なくしてミチルの希望への道は開かれない。雨に打たれ、死を意識したとき初めてミチルはそれまで直面することを避けてきた舞台をふたたび作り上げることへの渇望を口にするのだ。芝居をもう一度作れるなら死んでもいい、と。
たとえそぼふる雨といえども
かほどはかない手はしていまい
これは、ミチルがイスタンブールで拾った命を抱えて途方にくれたままフランスを彷徨っているとき出会った劇団の女優、久美子の演じた「ガラスの動物園」のローラを例えたフレーズ。E.E.カミングスの詩。そうか、と自分でかってに納得する。
久美子はミチルが立ち直るきっかけをくれる、運命の女性。雨の中で失いそうになった命を救われ、そぼふる雨のごときかぼそい腕の久美子との出会いによって、彼女は再び息を吹き返すのだ。作家が意識したものかどうかは分からないけれど、物語にひそかに織り込まれていたメッセージを見つけたようで、嬉しいのだ。
雨、雨、雨。
この季節の中で、何度も読み返した天使の骨をまた読み返す。
こうして私の雨の記憶は新たに塗り替えられてゆく。
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