ゲラン社のジャック・ゲランが友人サン・テグジュペリの「夜間飛行」へのオマージュとして作り上げたとされる名香「夜間飛行」。
この香水の存在のせいなのか、それとも「飛行機乗り」というシチュエーションがそう読まれやすいのか、「夜間飛行」という作品を語る人は「ロマンティシズム」を超えて「センチメンタリズム」という言葉を乱発するように思う。疑うなら、ためしにgoogleででも「夜間飛行・テグジュペリ」とでも入れて検索してみると分かる。
でも、私はこの話を読むときにいつもいつも、激しく胸が痛む。この作品に限らず、テグジュペリの作品を読む行為は私にとって、いつでも強い痛みを伴う。その痛みというのは、いわゆる陶酔や単純な男の浪漫だとかで説明できるような曖昧模糊としたものではなく、ナイフをきっかり突き立てたような、明確な痛みなのだ。鼻の奥がツンと痛む、あの不快を伴う痛みなのだ。
「夜間飛行」でのそれは、ファビアンが恍惚として雲海の彼方へと吸い込まれてゆく場面で頂点に達する。この場面を読むたびに私には、なだらかな雲海を縫ってまばたく稲妻のほそい光、その上にはてしなく広がる暗いはずの空が、なぜか黄金色に輝いているのが見える。ファビアンの飛行機は追い風に乗って、どこまでも空へと舞い上がる。そうだ。飛行機は海へと落下したのではなく、空へと落ちていったのだと思えてならない。
その鮮やかな場面で、くりかえし、私は痛みを覚える。ファビアンの妻が会社の廊下で俯いているからではない。リヴィエールがそれでも次の飛行機を空へ放つからではない。単純に、空へと吸い込まれる瞬間のファビアンに対して、空へ還る瞬間の命に対して、たったいま彼が死したのだと思うくらいに強い哀しみと悼みを覚えるから。私がファビアンであること。ファビアンが私であることを、あの雲海の場面は私に知らしめる。
「夜間飛行」の物語はサン・テグジュペリがリヴィエールに託したセンチメンタリズムなのか。殉職?したファビアンは究極のロマンティストなのか。とんでもない。私にとって、これは感傷などではくくることができない、あまりにも現実的過ぎる感覚を味わう数少ない物語だ。
世の倣いに背いて何かを全うしようとする人間は、必ずその現実の生々しさを味わう。味わいながら、苦味をかみ締めながら、あるときは家族を、恋人と、あるいは自らの命をも犠牲にしながら、歩をすすめるしかないときがある。その生き様に「ロマン」の香りを加味するのは、いつでも後世の人間でしかない。私はテグジュペリの物語をただの夢で終わらせるのは間違っていると強く感じる。この物語は物語だからこそ、フィクションだからこそ、ロマンティシズムの干渉を受けないですむのではないか。冷静に評価されるのではないか。生身の人間の人生は語られることによって脚色される。すでに語られているフィクションは、それ以上の干渉は不要となるはずではないか。
実際にはそこには読んだ人間の感想や読み方というものがあり、語られたままの物語などこの世には存在しないことが分かって、再度、肩を落とす。
リヴィエールは事故を恐れなかったのか。
ファビアンは飛行機とともに死すことにおびえなかったのか。
夫を待つ妻はその死に対して納得することができたのか。
サン・テグジュペリの筆は厳しく、冷徹なまでに淡々と彼らの行動を描き出す。だから痛い。だから私には、簡単に手にとることができない。
生きた人間の一生を一から見直すことは後世の人間には不可能だけれど、語られた物語を繰り返し読むことはできる。そうして、読むことによって人は語られた物語を追体験する。語られた時点で事実はフィクションとなる。けれど、フィクションだからといって必ずしも感傷的とはならないのだ。
シビアな現実の中でこそ生きるロマンの必要性を描き出す「夜間飛行」は、サン・テグジュペリという究極のリアリストが残した、「魂のノンフィクション」なのだと思う。
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