そういう、一日目。ようやく訪れてくれて、むしろほっとする。
いよいよほとんどのパーツが出揃って、関節となる球の準備も整い、すべてをくみ上げてみる最初の日が近づいている。その前に肝心の瞳を入れる作業が待っている。この作業はゆっくり時間をとってやりたいから、週末までしばらくは進まない。今は日々、小さなパーツ磨きをやっている。足の指の一本一本、くるぶしの骨と筋肉の線をたどりながら、ヤスリで丁寧に磨き上げてゆく。
人形つくりというのは、絵画や彫刻などの美術よりもむしろ、演劇を含む文芸に似ていると感じるのは、私の趣味嗜好がそちらよりの人間だからかもしれない。少なくとも私にとっての人形はそうだ。
人によっては人形は彫刻に近いと感じるかもしれない。けれど私にとって、人形はあくまで人形であり、芸術とは一線を画している。彫刻より劣っているのではない。私にとって、芸術というジャンルを超えた存在であり、芸術と人間を橋渡しするようなものなのだ。
手指のそり具合を確認しながら、細かくヤスリを動かし、ほとんど人形に指がぴったりと沿っているその瞬間でさえ、私は人形と一ミリとて溶け合ってはいない。瑠璃という人間と、グノシェンヌ(とうとうこの名前になってしまった)という人形は、まったく別の存在なのであり、個性をもって向き合うもの同士なのだ。そしてそこに私が人形をつくる理由がある、と今は思っている。
自己表現をしたいわけではない。他者に成り得る、いや、自らの身体以外にもう一体作られる人形は、ヒトガタだからこそ「あたし自身」ではありえない。なぜなら、すでにあたしの身体はここにあるから。むしろ、他者でしかありえないからこそ人形を作りたい。あたしが作った人形に見つけたいのは、その人形の瞳にうつるあたしの姿、なのだと気付いて愕然とする。つまりはあたしが欲しいのは、正確無比な鏡としての他者、なのかもしれない。
こういうことを考えて、ふと思い浮かぶのは、例えば演劇において俳優はその役との距離をどんなふうに取るのか。役は当人と同化するのか、あるいはあくまで他者として存在し、その距離感を計りながら客観的に演じてゆくのか。すくなくとも人形を完全に他者として認識する私にはガラスの仮面の北島マヤみたいな透過ガラスのような演技の仕方は想像できない。私にとって人形は舞台の上の役者であり、あるいは遠くを見つめるピエロであると同時に、決して「私自身」にはなりえない。これは私が幼い頃いやというほどに繰り返した「人形遊び」とは似ているようで視点がまったく違う、と今更気付く。
私がこの拙い手で作りだしたいのは、人を冷徹な瞳で見つめる人形。しがらみと情に絡め取られた関係性を断ち切れない人ではなく、血も情もない、ただ人の手によって形作られたヒトガタだからこそありえる対等さでもって、人を、作り手を見通す人形。何体作ればその思いを適えられるか。分からないけれど。とにかく、ひとりひとりのグノシェンヌを、空っぽの心でひたすらに形作らねばならない。邪心だらけのこのあたしが、血にまみれた指で。
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