久しぶりに物語の世界にどっぷり浸って一気読み。
嵐ヶ丘をまるまる読み返すのは、ふと思えば何年ぶりかで、その何年かの間にずいぶん私が、私自身が変化したことを感じ取る。
それでも変わらないのは、あの嵐ヶ丘に立つ三つの墓碑を思うときに胸に荒々しく吹きすさぶ風の強さか。
読み終わって、ふと恋人に「嵐ヶ丘で共感を覚える人物がいるとしたら?」と訪ねた。
すこし考えてから、「ヒース」という答え。
その意味を取り違えて私は納得する。「ヨルならそういうと思ったんだ」という私の言葉を打ち消して、彼女は言い直す。「そうじゃなくて、ヒース。あの丘に生えてる、ヒース」
彼女は嵐ヶ丘を読むと、自然に人格を感じ取るという。描かれている丘のヒースもまた、しかり。
たしかにエミリー・ブロンテの描くハワースの自然、激しく孤独な嵐が丘とスラシュクロスの屋敷には、登場人物たちと同等に、あるいはそれ以上に命をもっている独りの人間であるかのような強い運命の波のようなものを感じる。揺るがぬ覇気を感じる。
しかし、物語中すべての運命を丘の上から傍観する、いや、見てさえいないヒースに共感を覚えるとは、わが恋人の心は如何にあらんや。
彼女がヒースクリフに共感を覚えたとして私が驚かないのには理由がある。彼女と私の恋の始まりはそれはそれは無茶苦茶で、けれどその無茶苦茶さというのは恋愛の当事者たちが揃って口にする「私たちは特別」という幻の程度に大差はない。つまり、当時人に眉を顰められ、友人(と思っていた人たちだけど、実はただの知人だったらしい人たち)のあらかたを失う程度には非常識で、けれど時間がたてば「まあよくあること」と苦笑いで受け流される程度に平凡な恋愛のイザコザ。その中で、私は七年の歳月を経ても自分の恋人をよりによって嵐ヶ丘のヒースクリフに例えてしまうくらいに盲目的恋愛に未だに身をやつしている、という意味ではかなり非常識な偏愛っぷりかもしれない。
話がそれまくったけれど、とにもかくにも恋人は、未だに私にそんな妄想を抱かせるくらいに情熱的で非常識で一本気な純粋さを持っている。邪まさがないのではない。むしろ、その邪まさに対してあまりにも聡く自覚的になってしまうために、結局邪まになりきれない。その性質はそれゆえ不安定で、なにか彼女の情熱を引く出来事があれば、あっという間に私の存在など消し飛んでしまう類の危険性と常に背中あわせでもある。実際私が吹っ飛ばされそうになったこともあるのだし、その限りなく苦い経験もまた、時を経た今となって私の彼女の不安定な行動への不信と引き換えに、言動一致的純粋さへの信頼度を高めているくらいなのだ。恋人は他の人に心を奪われたら一瞬たりとも私といられない、ということを私は疑いもしない。そしてその疑いの無さゆえに、私は彼女の心を信じ、また疑う。
恋愛の矛盾というのは、相手も自分も騙せないときに頂点を迎える。透明度が高くなると、相手も自分も心を偽れないし、ほんの一分の偽りも許せない者同士が傷つけあわずに肩を寄せ合えるかどうか。愛しているから傷つけ、心が無くなったらただ離れる。そんな単純で透き通った関係性。けれど人の心は移ろい、迷い、動かされ、ゆれ、激しく震えるものなのだ。そしてその単純な関係性の連続と不連続、そうして連なってゆく不確かな道筋こそが、恋愛そのものであり、純度の高い恋愛はその関係性の危うさを決して免れないということを、嵐ヶ丘は、キャサリンとヒースクリフの世にも奇妙な愛憎物語は、再確認させる。
さて、彼女と私は今日も堅く信じあい、あるいはその堅さを緩ませる痛みを胸に抱いて疑いあっているか。
苦く甘く、日々確認しあう関係を、私たちは耐え抜いてゆく。それがともに生きる証であるかのように。
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