『ジョージはもうあなたの一部になっている。あなたがいくらギリシアに逃れようが、ジョージに二度と会うことがなかろうが、あいつの名前さえも忘れてしまおうが、ジョージは死ぬまであなたの心に残りつづける。愛しているものから離れることはできないのだ。それができればいいと思うようになるだろう。あなたは愛を変形させて、無視して、混乱させてしまうかもしれない。だが、ぜんぶ取り出して、捨てることはできない。』
E.M.フォースター「眺めのいい部屋」
フォースターの保守的なところが鼻につきながら、それでもやはり惹かれるのは、彼がつねにその保守性を破りたくて破れないことの苦しみに引き裂かれていたせいだろう。彼の小説のメインテーマを人間性とする人もいる。作家の描く人々の姿はときどき、私自身と重なる。人間性の一側面が世紀を超えて変化しないと、教えてくれるものでもある。それはつねに、縛ろうとする紐を、閉じ込めようとする扉を意識しながら、それを引きちぎろう打ち破ろうと、もがく。
新たに出会う作家・本の合間合間に、つねに読み続ける何人かの作家ローテーションがある。その中にフォースターも入っていて、特にこの「眺めのいい部屋」や「ハワーズエンド」はそれぞれ年に一度はじっくり読み返して、そのたびになにがしかの発見をする。歴史の中で本当に小さな存在であるひとりの人間は年毎に小さな変化を経て、時代を遡ったこの作家の作品をその短い人生のときどきに味わうことによって「人は変わらない」ことを教えられるという矛盾した繰り返しが私の日々を形作る。
労働者階級ながら地方でよい地位を築いた家の娘であるルーシーと、都市で事務をとる青年の恋は、最初から良識という扉に隔てられている。同じ作家がケンブリッジの学生同士の恋愛を描いた「モーリス」では、同性愛という当時の英国では犯罪とされた関係性が、「インドへの道」「天使も踏むをおそれるところ」では人種の違いが、そして「ハワーズエンド」では階級、年齢、資産、国籍等ありとあらゆる障壁が描かれる。それら障壁を越えるところのものは、いうまでもなく「愛情」である。その信念ともいえるくらい強いフォースターのテーマは、最初に引用したエマーソン氏のルーシーへの説得の言葉に満ち満ちている。愛から逃れようとするルーシーに、エマーソン氏は続ける。
「だが、あなたが騙しているのに、どうしてみんなは信頼するのです」
自分を騙す人間を、人は信頼しない。自分を騙していることに気付かない人間は、もっと不幸だろう。フォースターはこの小説の二人を愛の真理のもとに結びつけておきながらも、完全なるハッピーエンドを用意するわけではない。彼女らの背後には、自分たちがいま越えてきた大きな壁がせまっている。ルーシーは弟以外の家族とは絶縁状態、味方と思っていた牧師も二人に冷たく、充分金があるというわけでもない。映画のラストでは払拭されていた壁を越えることの厳しさが、原作には色濃く残っている。解説では牧師の冷たさを疑問視する旨が書かれているけれど、私はしごく納得している。彼らは壁を越えたけれど、とり残された人々の前には依然として壁は存在すべきなのだ。むろん一緒に越えてくれる友人がいてくれることが当人たちにとって最良なのは、言うまでもない。
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