結婚という言葉にかくも簡単に動揺する。
もう七年になる恋人との関係も、どちらかになにかあれば水の泡。つくす手立てはあっても、その手立てがいざというとき役立つ保障などどこにもない。何年たっても恋人の家族から腫れ物あつかいされるこの状態。願わくば別れてほしいと思われていることを、会うとありありと思い知らされるし、ときには実際口に出される。嫌われているのではないけれど、好かれてもいない。私の母はカムアウトを冷静に受け止め、その後さらりと聞かなかったことにした数年間、お見合いを何度ももってきて、何度も激しい喧嘩をした。
恋人と結婚したいのだろうか、と、よく私は自分に問いかける。
瞬間の答えは「YES」だけれど、よくよく考えるとやはりちがう。結婚したいのではない。認められたい。祝福されたい。
けれど、社会の枠で関係を祝福されるには、その枠にはいること、すなわち制度化されること、てっとりばやく、その文化背景で通じる、共通言語を得ることが必要になる。その言語体系は「結婚」と呼ばれたり、あるときは「家族」と呼ばれたりする。
私が望むのは、個人個人が個としてつながることで、そこに国家が干渉するなんてゴメンのはず。けれど、同じ目線で恋愛の話をしていたつもりのときに、結婚をするっと手札のように見せる人のあまりに自然な態度と周囲の受け止め方を目にして、たまらなくなる。そうだ。私は選べないのだ、と何度も思い知らされる。私は結婚だけではなく、非婚をも選べない。選択肢はない。誰もがわかるグローバルな言語のはずであるところの「結婚」「家族」言語から完全に弾き飛ばされている、異端だ。
アメリカの人気コメディエンヌがカムアウトしたときドキュメンタリーでインタビューに答えた言葉が、ことあるごとに私の頭を通り過ぎる。
「選べるものなら、異性愛者に生まれたかった」
それは社会への降参や泣き言ではなく、社会の中で突出しない存在でいたいという叫び。私は女性を愛することに幸せを感じる。私にとって、人を愛することは、性別関係なくごく自然なことなのだ。けれど、男性を愛するだけで満足する人間でいられたら、こんなにややこしく障害の多い人生にはならなかったかもしれない。
落ち着かない気持ちを抱きながら、恋人に聞く。
「ヨルは私と結婚したい?」
私の寂しさと不安を察する彼女は、迷いもせず私の望む答えをくれる。この私たちの会話は、一言で「賛成」「反対」と言えない、態度を決められない思いの、甘い甘い共有でもある。
私にとってはその絆で十二分であり、それ以上の外的な付属物は枷になるだけだということを、いったいいつになれば納得できるだろう。同性婚が制度化したら。。。?考え込む私に、ヨルは人差し指を振ってみせた。
「いい、瑠璃?制度っていうのはね、出来上がった瞬間に形骸化の一途をたどるものなんだよ」
分かってるよ、分かってる。でもだからこそ、崩れるからこそ、世の人々は形骸にすがる。私もそれに縋りたいときがある。それだけのことなんだろう、きっと。。
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