ムーミン谷の11月を持ち歩くうちに早師走も半ば。毎日家では鬱々と雑誌を眺めるしかできない。本もまったく読めない。人にまともにメールすることもできない状態でごめんなさい>私信
弱音を吐くが、毎日が重い。特に午前中。しかしこうして書けるうちはマシだと思う。
母にうっかり人形の話をしてしまった。母にだけはなにがあろうと話してはいけなかったと気付いたのは、間抜けなことに三日もたってから。写真を見せて話をしたとき、「あなたは作ったものを売ることを考えないと。私が買ってあげるよ」と言われて、あ、しまった、と思ったけれど、その場は忘れることにしたのだ。
写真を見せてしまったあるヒトガタは、私にとって、母との間に起こった「作る」ことに対する姿勢にかかわるある出来事を過去にものにするために必要な再生の作業だった。むろん母はそのようなことを知らない。知らないからかほど無邪気に「買ってあげる」といえるのだ。
「ひとつのことを、遣り遂げないと」
とも言った。
母がなにを期待しようと、それに応えたいと思った瞬間に、あたしは十代のモラトリアムにタイムスリップしてしまう。あたしは習熟するためにヒトガタを作るのではない。ヒトガタを思ったように作れるために習熟したいとは思うけれど。その逆はありえない。
ようやく、分かった。
あたしは母のことを心配に思うけれど、理解してほしいと思うのは間違いなのだ。だってあたしは、母を理解できないし、本当に求めているのは深い理解ではなく、ただ手を離してくれること、なのだ。
あたしをその家族の強固な輪から、そっと外してもらえたらそれで満足。
外せないなら、「変わり者」だと認識してくれればいいのだ。母とは違う世界に生きる、違う種の動物であると。
ダメージはあまりに大きいけれど、私自身が思い知るためには必要だったのかもしれない。
修復は可能なはず。
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