可淡ってレーサーレプリカ乗ってたのかあ。。らしいといえばかなりらしい選択。潔く才能とともにあまりにも若い命を散らせてしまったひと。
潔くないあたしは、新年早々ぶつぶついいながら人形への妄想を膨らませているところ。四谷シモンの「人形作家」を買ってきてすでに二回通り読んで、図書館で文楽の本を二冊、幻想文学の特集本一冊。ときどき本を読みに行く喫茶店で新作とやらのチャイを飲みながら、妄想をメモに書き写す。やはり紙に書いていると頭が落ち着いていながらも入り込んでいくのでいい感じ。
夜になって恋人と近所の銭湯で露天風呂につかりながら、人形談義。あたしには人形を「幻想」と捉える感覚がどうにもこうにもつかめない。いや、つかめなくていいんだけど。人形は人形であって、ほかの何でもなく、芸術でさえない。だから枠も必要なく、何を作っても良いというそらおそろしいまでの自由さがあるのだから。
人形はあたしにとって妄想をたくすために必要なconcreteな媒体なのだ。それはもう、具体的な、具象そのもの。抽象からおそらくもっとも遠く、しかしだからこそ近いのだろうか。ふむ。そうなると幻想そのものということか。あたしにとっては、媒体。巫女。そうだな。。巫女が一番近いかもしれない。
同じく恋人と澁澤龍彦談義。しかしあたしは澁澤の著作のうち読んでいるものは限りなく偏っている。毒薬と人形と、博物誌ものの一部。なんというか、generalistな彼を網羅することは常人にはできないだろうと思うし、網羅することに意味があるとも思えないから。もし澁澤が生きていて、目の前にいたらぜひとも話をしてみたいけれど。しかし恐ろしく混沌として実りの多い時代だ。澁澤と寺山修司と唐十郎と、三島由紀夫と。。ありとあらゆる場所で同時代にさまざまなサロンが展開されていたのだろうなと思うと。すさまじいパワーだ。現代の日本が腑抜けてしまっている(ように思える)のは、この時代にすべての膿や生気やなにもかもを吐き出してしまったせいではないかと思えてしまう。
紙は良いのだけれど、やはり持ち歩けるpcが欲しい。というわけで、格安PCのEee PCの発売を待っているあたし。できればLinuxのまんまのやつがいいんだけど、日本版はどうやらwindows XPが入るらしい。やだなあ。システム重くなるだけじゃん。ちっちゃいPC持ち歩いて、妄想をじゃんじゃんインプットしてゆきたいのだ。
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