市販の風邪薬がまったく効かない。ずうっと熱が上がったり下がったり。寒がったり暑がったり。あきらかにインフルエンザ。明日は病院に引っ張っていってやるといきまいたら、布団の中から弱弱しく自分で行くと。。。よほど辛いようす(汗)。
肋骨ヒビのうえに今度はインフルエンザ(仮定)。まったく正月早々えらい厄払い。
あまりに寒がるので家中の布団(つまり、二人分の冬物、夏物すべて)をかぶせたら、私がかける布団が無くなった。というわけではないけど、今夜は私は起きて看病体制。定期的に着るものを変えないと熱が下がらないだろうし。
そんなわけで、おきているのだから目いっぱい自分自身のことを考えよう。熱にうなされている恋人を差し置いて。
さまざまな本を引っ張り出してきて、雑誌も眺めて、ああだこうだと整理する。
とりあえず今日眺めていたのは
四谷シモン「四谷シモン前編」
「ドールフォーラムジャパン」の吉田良・四谷シモン・マリオ・Aの対談
三浦悦子の人形写真集にあった吉田良との対談
梨木香歩「りかさん」「からくりからくさ」
近々再読しようと思っているのは、
四谷シモン「人形作家」
澁澤龍彦「夢の宇宙誌」
四谷シモンの著作は、私自身の人形との距離を測るのに、とてもよい指針になる。なぜなら彼の人形への思いの真髄は私とは真逆を行くところがあって、けれども人形に向かうスタンスはかなり近いように感じるのだ。もちろん彼は人形制作者としてはあまりにパートタイムな私とはまったく違う一年中人形のことばかりを考えるプロフェッショナルなのだけれど。けれど、ヒトガタという形を作り、それについて考察を巡らせる遣り方が私の「どうしてもこうなってしまう」あり方と似ていると感じるから。だから逆になにが違うのかが見えやすい。
彼にしろ、彼と吉田良・マリオ・Aの三人での対談を読んでいて疑問に感じるのが、彼らはなぜ人形と死とを結びつけるのか。これは私がもっとも敬愛する人形作家天野可淡にも一部通じるのだけれど、死臭というものを人形にまとわせることをとても意識しているようなのだ。けれどあたしは死臭にほとんど興味がない。人形が生きているかどうかということにさえ興味がない。人形は器、なのだ。魂を受け取る、そこに受け入れる器。生きているか死んでいるかはほとんど関係ない。あたしにとっては。
そのあたりをどう言語化するかが難しい。人形は言語ではないけれど、ある意味言語なのだ。形があるという意味で。四谷シモンが著作に収められた対談で澁澤龍彦に言っている。自分は芝居や人形が好きだ、形があるものが好きだ、と。確かに同じ。私も芝居と人形をとても近しいものとしてみている。だから四谷シモン(の作品)とあまりにも遠いと感じながらもその作品が気になってしまうのかもしれない。そうだ。芝居も人形も形がある。言語、という形。人形に言語はないだろうといわれそうだけれど、ある。形あるものには言語がある。あいうえお、とはまた違う、そのものによって体現される言語が。でもこれを人に話してもあまり容易には理解されない。理解、というより伝わらない。私が日ごろよく語り合っている恋人か、親しい友人の中でもさらに血の流れが似ている人にしかわからなかったりする。かと思うと、まったく知らない人がさらっと同じことを話していたりする。結局枠はわからないし、見えない。
三浦悦子が師である吉田良とものの一ページの対談。これはたいして中身はない。つまりは三浦が面白い可能性をもった作家であるという紹介を吉田良がしていて、それを三浦がありがたく拝聴しているという具合だから。この人の人形を最初みたとき、個展で感じたとき、過剰にデコレートされた人形のあり方にかかわらず、あたしはまったく逆の感覚を抱いた。安心感と、「ここにもこういう人がいるのか」という安堵、安らぎ。体のあちこちを縫われていたり、切り落とされていたりする人形に囲まれて安心感というのも妙だけれど、それが私の心の在り処に近かったのかもしれない。その感覚は、先日上野の美術館にムンクを見に行ったときに感じたものとどこか似ている。ムンクの「絶望」というタイトルの絵を見たときに感じた限りない安らぎと、三浦の人形に囲まれた空気のやわらかさは私にとって同質のものであった。
ファンの方がマイミクさんにいらしたら申し訳ないのだけれど、梨木香歩という作家を私はあまり信用していない。からくりからくさを読んだとき、どうも江国や川上の二番三番煎じの匂いがしてしまったのもある。「りかさん」の中で、『人間が自分から働きかけない限り、自然から自発的になにかの変化が起こることはない』、というような記述を見つけたときに「ああ、ここがあたしの感覚とずれるんだ」と納得した。「りかさん」は古い日本人形で、主人公ようことテレパシーで話すことができる。このりかさんのあり方は嫌いじゃないし、お人形遊び的な少女とのやりとりはまさに私が少女時代に通り過ぎてきた日常=遊びそのものだから、よくわかる。私はなにしろ十歳越えても人形遊びしていたのだから。けれど、自然の自発性、自然が生きているということを認めていない人が人形に魂を込めてしまったら、もうそれは完全に西洋的ホラーにしかなりえない。生きていないはずのものが生きている、抜け殻に魂が入り込んだ、という意味で。私の人形への傾倒はそういう悪霊めいたものは介在しないから、なにか違和感があるのか。けれど彼女の「りかさん」は嫌いになれない一作だ。人形のおままごとが生き生き描かれているせいかもしれない。桜の精に引き止められたエピソードはかなり好きだし。それでもおそらく私はこの作家をこれ以上読みすすむことはないように感じる。
自然の中にありその自然の中で受動的だったり能動的だったりする、両方の自分を置きざりにして、人形は作れない。
可淡の亡くなった翌年に発刊された写真集「Retrospective」が復刊されている。
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68309373
私は豪華本を予約したので一般発売の本を買ってはいないのだけれど、書店で手にとったら、かなり多くの写真が追加されていて見入ってしまった。特に人形作品そのものとは違うけれど、可淡自身の生い立ちを追うような章が付け加えられていて、また死のころにもっとも近しかった人物として吉田良の文章も載せられている。死後二十年近くたってからの、まさに人生を終えた人の集大成という感じでこれはこれでなにか味わいがあるのかもしれない。可淡の人となりをまったく知らず、まるで伝説のようになっているエピソードだけを耳にしたりした人たちにとっては、嬉しい付録だろう。オリジナル版の「Retrospective」の素っ気無いまでの作品集という体裁にこだわった形とどちらが好きか、手にとる人の好みによって大きくわかれそうな。。
ひたすら迷いに迷った昨年。今年は動く年にしたい。
人形にもっと近づき、入り込む手立てを考え中。まずは継続して制作する具体的な準備を整えなければならない。
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