あたしは結局刹那に生きる人間で、恋愛が全てではなくとも、人間が全てと思っている人間には違い無い。
人間と恋愛。
その違いは何処にあるのだろう。
その境目は一体?
考えたところでなんの答えも無い。
全てあたしの頭の中のことなのだから。
人が好きで、人に興味を持っていて、結局人を追及せずにはいられない。そういう性分だと諦めてくれる人としかつき合えないとしたら、あたしがこの狭苦しい世間で幸せに暮らすには払う犠牲が多過ぎる。
またKさんの追及が始まった。
笑ってくれる人はまだきっとあたしに対して愛のある貴重な友人なのだ。大抵のひとはきっと
『なんの権利があって?』
と思う。何の権利があってズカズカと他人の内面に踏み込んでくるんだ?
確かにあたしに権利は何一つない。そこにあるのは純然たる好奇心。
『この人は何を考えてこんなことをするのだろう?』
という疑問だけなのだから。面白いことに(そしてあたしを好きでない人にとっては全く面白くないコトに)、あたしの追及の激しさは、相手への興味の度合とともに、相手のあたしへの興味の度合と正比例する。いくらあたしの側に相手への興味があっても、あたしに対して興味のない相手の内面を掘り下げる時間は持て余していない。そのあたりが恋愛と混乱される所以だろう。そしてあたし自身が恋愛と混ぜこぜのこれらの関係に終いには飛び込む羽目になる。其れも嬉々として。
シャルロット•ゲンズブールとイヴァン•アタルの『フレンチなしあわせの見つけ方』という映画を見た。愛というなまものを扱いかねて途方にくれる男と、愛そのものにどっぷりと頭の天辺まで潜って身動きの取れない女の話だ。この二人は似た者同士で、だから惹かれるし、だから傷つけ合う。嘘をつくポイントが寸分違わず、男は女を騙したつもりであからさまな浮気を更に印象付け、女は騙されてあげた振りをしながら浮気の機会を提供してしまう自分自身に傷付く。
愚かな一対の男女の騙しあい。どう足掻いたところで恋人関係にある二人のいざこざは、一対として認識される。この映画も男は男の、女は女の痛みを描いているようで有りながら、はっきり対比させて一対であることを際立たせる。ラスト近く、一度は振り切らせたかに見えた男の浮気を再度匂わせる一方、女の側にも明らかなAffairの徴候を示して場面は暗転する。
長く続いた関係性の中に溜まる膿を出すような浮気と一線を画する刹那の恋は確かにあって、それは刺激やお楽しみとは全く異なる。刹那の積み重ねでつくられた愛と、この刹那を生きる恋、どちらが重いか即座に決められる人がいるなら、お合いして観たい。
最近のコメント