恋人は非常に緩くていい加減。
それはあたしをこれまで時々(しょっちゅう?)苛苛させてきた。彼女の緩さは人付き合いをしていてもかなり発揮されていて、緩さゆえにマメさが無い彼女をあたしはフォローしているつもりでいることも多い。マメさがないわりには人並みに寂しがりのところもある彼女は、あたしが友達と(彼女から見れば)頻繁に会っているのを見てときとして指をくわえて羨ましがる。だったら自分でちゃんと連絡を取ればいいのにと思うのだが、彼女はそうしない。ただの不精といえば不精でもある。
ところで、実際人と会うと人に一目置かれ発言に重きを置かれるのは彼女のほうだ。そのことがあたしにショックを与えることもあり、Nなんて連絡取ることもしないくせに、あたしが連絡取ってようやっと会った友達に強い印象を与えているのは彼女のほうだなんて不公平だと理不尽な嫉妬を覚えることもある。あたしが面白みのない人間だから仕方が無い、印象を与えたかったら人知れず努力することだという合理的発想はそこにはない。おそらく卑近な嫉妬と苛立ちだけ。それに僅かな諦め。あたしはそういう人間なんだから。
話がずれた。
恋人のその緩さは、それでも時にあたしを救う。場を救う。あたしのように他者に対してムキになるということの少ない彼女は、だからこそ他者に耳を傾けさせるものを持っている。あたしはすぐにイラっとして直接的な物言いしか出来なくなるから、この彼女の冷静沈着な反応は、場を安定させるトランキライザー的役割を果たしてくれる。主にあたしにとって。
-----------------------
ものを欲しがったり、人をうらやんだりすることに、疲れていた。このところ物欲にばかり気が行っていて、ずっとオークションを見たり店に行ったり、なにかを「所有する」ことに執着しすぎた。外をぶらりと歩いてきて、スーパーで買ってきた特売の金時芋を蒸かしながら掃除機をかけた。終わってPCに向かったら、ふとクチナシの香りが恋しくなって、手元にあったクチナシのトワレをしゅっと一吹き。ああ、なんだかホッとした。職業問わずとりあえず働ける身体と暮らしてゆけるだけのお金があり、欲しいものは最低限手に入る。それで十二分であることを時々忘れてしまう。
いわゆる野心とは程遠い生活でも、この十年はあたしにとって冒険の連続だった。様々な意味で。何もかもがギリギリだった生活を抜けたあと、反動のように所有欲が押し寄せて、それにあたしは飲み込まれんばかりだ。けれど、ギリギリだった生活の中に彼女とあたしのほろ苦い幸福があり、その中であたしたちは共に痛みを味わってきたんだ。今、その苦さを完全に取り去ろうとするのはなんとも愚かしいし、もったいない。彼女の選ぶ人生、そしてあたしの選ぶ人生は、そんなに甘さばかりを追求するものではないだろう。どうしたってつきまとう苦さを嫌ってばかりいたら、きっと人生の多くを失う。苦さにこそ、旨みをみつけるくらいに味わうことが必要。そしてこの十年を乗り越えたあたしにはそれが、できる。おそらく彼女にも。
最近のコメント