松浦の話からやまじえびねへ移るのはどうかとも思うけれど。。
彼女は松浦の「乾く夏」を原作に「夜を超える」という作品描いてます。
で、私自身の解釈としてはやまじえびねが絵にはどう考えてもしにくいと思われる?松浦の作品(しかも乾く夏はちょっとあまりにも。。。と思った)を漫画で描いたというのはなんだかとても分かる気がします。
私は今でもやまじえびねの一部の作品はかなり好きで読み返します。
でも、その中でどうしても納得できないのがあって。
「Sweet lovin' baby」という一作ですが(コミックスにもなっています)、この設定として一組のビアンカップルと、彼女らと知り合って仲良くなる女の子が出てきます。
ビアンカップルは一見とても理想的な大人の恋人同士で、彼女らと知り合ったオンナノコ京ちゃん(いちことかなり似たタイプ)は彼女らに強くあこがれて、彼女らの関係性に夢をもってゆくわけです。
でも一方でビアンカップルの片割れマゴベエは、長く愛した恋人のレイを振り切って男性と結婚することを選ぶ。
自分にとってレイが最愛の相手だと言いながら、
「それでも自分は結婚して子供を産んで家庭を経験したい」
と言って去ってゆく。
私はこの作品を、強烈な違和感ともっと強烈な親和感の矛盾を抱えながら読んだわけです。
違和感は、「LOVE MY LIFE」でまるで同性愛者のスポークスマンのように人を愛することの悦びを描いた人が、なぜこの作品では「形」に入ってゆくのか、ということ。
親和感のほうは、レイの感じる痛みに対するもの。そして、マゴベエの信仰といって差し支えないほどの「家族」への憧れに対するものでした。私にも身に覚えがあって、同時にそれを求めて去られた痛みにもいやというほど馴染みが深い。
そういう複雑な思いを持って読んだのに、やまじえびね自身はコミックスのあとがきで、こんなふうに書いています(ややうろおぼえなので正確でなくてごめんなさい)。
「私がこの作品の中で最も好きなキャラクターはマゴベエだ。彼女の選択を読者は受け入れてくれるかどうか不安だった。自分はこの作品で同性愛者の抱える現実の問題を描いたつもりではない。二人の関係にあこがれる京ちゃんの姿を描きたかった」
それを読んで私の頭はますます混乱しました。
一体この作者はどんな心境であれだけ多くの同性愛者のキャラクターたちを生み出してきたんだろうと。。
しかも、ビアン雑誌のインタビューではっきりと「自分はビアンではない」と言っているから、そういうモチベーションで描いているわけでもない。
でも、最新作で「血の繋がらない人たちが一つの屋根のしたに集まって新しい家族の形を作ってゆく」という方向性を打ち出しているのを見て、妙に納得したんです。
そうか、この人は既成の概念にない人間関係の単位を一から作り出すことに興味を持っていたんだ。そして、その枠には強いジェンダー概念があってはならない。その理想的な枠組みとして「レズビアン」が選ばれたのか。と。
(私が理解する)松浦の得た枠組みとある意味同じように思えました。
では、松浦理英子の小説には今やや遠い感覚を覚えて、やまじえびねの漫画に対しては今までとさほど変わらず愛着を持つのはなぜか。
やまじ自身が描きながら、キャラクターとともに少しずつ成長しているせいなのかもしれない。
また、やまじが描きたいものが「関係性」ではなく「関係性の中でもがく人」にあるせいなのかもしれない。
そういう彼女の枠組みの再構成を試みる姿勢に対する理解が誤解でないなら、上に引用した彼女自身の「Sweet lovin' baby」を描いた理由も、なるほどと思える。
特に、「自分はこの作品で同性愛者の抱える現実の問題を描いたつもりではない。」という言葉をコミックスの後書きでわざわざ使ったことが、彼女の当事者に対する「配慮」と思えるから。
ちなみにLOVE MY LIFE、私もとっても好きなのですが、誰かが「こんなにうまくいくわけがない。こんなのはただの理想だ」と怒っていたのをネットで読んだことがあります。
うん。
確かに、それを身をもって経験した人には逆になかなか描けない理想なのかもしれないと思いました。
matuura_yamaji
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