中山可穂の作品を読んでいつも感じるのは、「なぜこんなに奥にずかずか入り込んでくるのか」という思い。
今回のそれはとにかく前に後ろに奥に手前にと揺すぶられる。
何がなんだか分からないくらいに強く強く。
まるで無謀運転の車の助手席に乗せられているように、しまいには吐き気までくる。
それはやはり、中山可穂の世界が技術云々をはるかに超えて私に訴えかけてくるせいだと思う。
「マラケシュ心中」
まず、読んでいる最中にも感じたこと。
とにかく心をかき乱される。これはなんだろうという思い、なぜか悔しく思う気持ちが交錯して辛かった。
そうして最後まで行ったら、今度はすうっと上にあがってきた。
正直ラストは気が抜けた。
その理由を書いておこうと思います。
王寺ミチルという作家の分身キャラクターからこっち、作品中に出てくる人物は作者そのもの、あるいは作者の恋人が主役となって物語を形づくっていく。
「マラケシュ心中」の主人公絢彦の性格、相手のタイプから舞台設定までほとんどこれまでの作品と変わってない。
それが最初の不安を呼んだ。
「うーん。。。またなのか。。?」
という思い。
そういう不安で最初の十ページくらいは眉を顰めながら読みすすんだ。
ものすごく揺さぶられる。揺さぶられてぐるぐると引きずられはじめる。
正直なところ、私は中山可穂は文章力のある作家とは思えない。
特に構成にはいつも???と思う部分が多くて、今回も疑問点は多かった。
「花伽藍」が直木賞に推されたのはファンとして(ファンなのよ、まじで)心から嬉しかったけれど、驚いたのも事実。(このへん、意見の違う方の感想もとむ)
それでもなお、ひきずられる。毎回新作を期待する。出たら読まずにはいられない。
その理由はただひとつ。
彼女の描く主人公たちの抱く切迫した思いを自分も抱いたことがあるから。
そして、その切迫した思いゆえに自分を落として相手を傷つけ、泣きさけんだことがあるから。
その思いをナイフのように喉元に突き付けられる。激しい恋愛経験を、人生経験をした人は世の中にはたくさんいる。でも、それをこんなにもどくどくと脈打つままに見せつける作家は他にあまり見られない。
それが私にとっての中山可穂の魅力。
今回の絢彦。
この人にはこれまで以上に乱される。どうにも切ない。
それはこの主人公の年齢と経験値に自分が近いせいが大いにある。わずかな希望と大きな諦めの念。出会った人へのすがるような思い。たったひとつしかないと思いつめる強さ。
ぶんぶんと振り回された。
けれど、あえて言いたい。
絢彦はあるいは作家自身になってはいないか。。。?
今までの主人公と作家自身が重なってきたのは間違いないけれど、常にそのなかに一定の客観性が保たれてきたように思う。ミチルは旅先で出会った久美子と人生への希望をつないだ。ガリは透子との間の子供を育てながら、自分自身の未来をみつめた。なつめは振り回す恋人と決別してするりと自分自身に帰っていった。
けれど、絢彦は、どこにも行き着かない。
ラストは救いのようでいて、私には全く救いには見えない。
むしろ、網を無視して刹那の世界へ身を投じるように見える。
これまで中山可穂の世界に見られた、強いナルシシズムを超えた客観性のようなものがラストですっかり抜け落ちてしまった。
そんな風にいったら言い過ぎかな。。?
読んで数日しかたってない今、まだこの作品からうけたすべての印象を整理しきれていないので、結論は出せないけれど、とても複雑な心地がしている。彼女の感性がほんのすこし、ほんのすこしだけ曇ったと感じてしまったことは否めない。
私はそれでも中山可穂を気にし続けるだろうな。。。
生半可な恋愛小説では太刀打ちできない血潮を感じる文章。
きっと中山がたびたび各賞の審査員をうならせ、突き動かし、その作品を候補にあげさせたりする理由はこのあたりだと思っている。
技術をしのぐ感性が中山作品にはあると思ってる。
きっと、また私が「吐き気をもよおす」ような本を書いてくれると期待して。。。
(2002年10月・講談社)
marache
最近のコメント