恋人ヨルが「可淡や恋月姫の人形はゴシックなのか?そもそもゴシックとは?」という質問を投げてきた。その私なりの考えを書きます。
今日は原宿なんぞに繰り出して彼女が数十年ぶりにいきたいというので竹下通りを歩いてみた。
平日なのにものすごーい人の波。しかし気付けば目につくのはどうみても地方からの修学旅行生とおぼしき今時見ない真っ黒な御髪と化粧っけのないバラ色の頬の女子生徒たち&「あなたたちはその格好で電車に乗っていらしたのでしょうか?」と問いつめたくなるフリルの真っ黒いドレスにはちきれんばかりの身体をとじこめた少女と地味なお母さんなどなど。
東京人はいないと思われる人の群れがてんでな方向へ向いて流れていくからまさにカオス。
そして上記の通りの黒フリルドレスの少女はいわゆる「ゴスロリ」と呼ばれる種族。
ヨルのあげた「ゴシック」には意味が複数あるよね。
一個はいわゆるゴシック様式。モノホンの大聖堂の建築様式のこと。
で、もう一方は裏ゴシックというか、なぜなのかキリスト教の裏へ裏へと回ってきたのを表すサブカルチャー。
なぜ裏なのにゴシックなのかなと調べてみると、語源の「大聖堂」はそもそもキリスト教の総本山バチカンやローマ帝国側から見た場合にとても異教的な空間だったらしい。大聖堂建築が行われた時代のパリの信仰はヨルの指摘するアミニズムとかを含む中世の民衆信仰をもとにしたマリア信仰が隆盛だったらしい。だからゴシック様式は異教的文化を表す言葉になっていったのかもしれない。。
こちらから派生したと思われるほうの「ゴシック」はキリスト教文化の闇というよりも、キリスト教文化で「×」とされつつも人間が憧れる部分を受け持っていたような気がする。死を恐れること(不死を願うこと)、他人を犠牲にして生き延びようとすること、などなど、キリストびとであれば口にすることを禁ずるようなこと。それを体現したのは吸血鬼や血の涙を流すキリストであったり、黒魔術であったり、降霊術であったりってことのような。。
面白いのは、裏なんだけど微妙に表と接してる。ゴシックロリータをこころざすお嬢様方は一様にバッハの教会オルガンを聞くかと思えばグレゴリオ聖歌聞いたり、やっぱりキリスト教以前とキリスト教以降が微妙に混じりあった趣味なのね。。語源の「大聖堂」が生きているなあと思ってしまう。
真っ黒な口紅をつけた魔女軍団を見ていてさえ。。
ほいで、人形の話。
ご質問の可淡と恋月姫について、私の意見。あくまで私の意見であってこれが通説とは思っていませんが。
まず、恋月姫については、後者のゴシックという意味でならもろその趣味を体現していると思う。
なにしろご本人が自分の人形を神への捧げものだと語り、同時に人形を宇宙人にたとえたり、また人形は仮死状態であるような捉え方をしている。そして人形展では教会音楽にロックを混ぜたり、人形を棺の中に横たえたり。血の涙を流すキリスト像も作ってる。極めて異教的。。
キリスト教を意図的に裏にまわって解釈しているという印象。
可淡の方は、そういう部分はほとんどないと思う。
人形展では主宰者の趣味でか恋月姫と同様の演出があったけれど、可淡の人形には宗教的な匂いはほとんどなくて、もっと身近な内省的な部分に目がむけられているように感じる(キリスト教が内省的でないとはいうのではなく)。
彼女の人形作品集におさめられた絵画作品に描かれているのは人形や髑髏、胎児などの組み合わせが多い。あくまで自身の奥を見据える目から作られた作品の数々と感じる。
恋月姫と可淡は比べるべくもなく表現方法はかなり異なる。
恋月姫は人間の魂の器としての形状のデフォルメとしての人形、可淡は個々の心の深淵を探る水先案内人としての人形と思える。そう思い比べると、恋月姫の人形は様式を重要視してる。
可淡の人形は様式とは無縁。どちらがどうというより、とにかく質は違うものだなと思う。
というわけで、私としては恋月姫はとってもゴシック。可淡は否、です。
ningyo_gothic
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