頭に思い切り血がのぼったので必死でなだめています。
内容の感想を書こうと思っていたけれど、解説をうっかり読んだらもうふっとびました。とりあえずこの驚愕の解説について書きます。。
吉屋信子「屋根裏の二処女」(国書刊行会発行)を読みおえました。
このシリーズは国書刊行会から三巻にわたって吉屋の著書を発行する「乙女小説」シリーズと銘打ったシリーズとなっており、三冊すべてに監修の「嶽本野ばら」氏の解説と注釈がついています。
注釈については、ややご本人のふざけた語調が気になるものの、歴史や近代に疎い若者でも読みやすいよう配慮しています。
が、この「屋根裏の二処女」についての解説。
もう憤死モノです。
まず、この小説が世の中で信子のレズビアンカムアウト小説と誤解されているというくだりから始まります。
そして、信子がレズビアンではなかったという論証をしていくのです。
論証していくことにより、「信子はレズビアンなんかじゃない。だからこれは禁断の書ではない」と導いているの。
私自身は、この小説が吉屋信子のカムアウト小説だろうがなかろうが興味はありません。ただ、嶽本氏も解説中で指摘している通り、この小説は信子自身の体験と重なる部分があるという点については興味をもって読みました。
嶽本氏の理論はこうです。
- 「屋根裏の二処女」はレズビアンカムアウト小説という一部の誤解をうけている。それゆえにスキャンダラスな禁断の書とされている。
- だが、レズビアンは肉欲を伴うはずだ
- 吉屋の描く「エス」には肉欲は伴わない
- ゆえに吉屋はレズビアンではなく、「エス」である。
- 而して、「屋根裏の二処女」はレズビアン小説ではなく、禁断の書でもありえない
この理論には驚くほどにばかばかしい穴が山ほどあります。
- 穴その1
- レズビアン小説をスキャンダラスな禁断の書とすることに創作者としての疑問はないのかな?
- 穴その2
- カムアウト小説ではないということを論じることが主要な趣旨となっているこの解説は、「レズビアン=スキャンダラス」というイメージを助長するだけとおもわない?
- 穴その3
- レズビアンにも肉欲をもたない人がいるんですけど。。
- 穴その4
- 「屋根裏の二処女」の骨格を成す一部分に、確実に主人公二人の恋愛感情がある。それは彼女らがはじめて肉体的な接触を持つときにはっきりと表現されてる。読み落としたか、意図的に忘れているのか。。。?
嶽本氏は、吉屋がレズビアンではないという根拠として「花物語」も例にあげています。嶽本氏にかかればレズビアンの語源となったレスボス島の詩人サッフォーもレズビアンではないということになります(実際彼女はバイセクシャルだったそうですが)。
最初に書いたけど、私は「屋根裏・・」がカムアウト小説だと論じる気は全くないし、吉屋信子がレズビアンだったかどうかなんて議論にも興味はないの。
でも、この時代に同性のパートナーと生き、創作し、苦悩し、死していった彼女を「エス」という言葉のみで表現することに拘る嶽本氏は、じゃあ同性のパートナーと暮らしている私をなんと表現するんだろう?セックスしているかどうかだけがレズビアンかどうかの分かれ目なのかな?
悪いけど、私も自分がレズビアンだとは思ったことはない。でも、私の恋人は「自分はレズビアンだ」という確信によってとても心を楽にした人。。。レズビアンの恋人だってレズビアンだとは限らない。
そのくらい性も多様なんだって、誰か嶽本氏に教えてあげてほしい。
こんな風に「レズビアン」を型にはめ隔離しようとするような人がなぜ吉屋信子の本の解説なんてしてるんだろう?悔しくて涙がでます。
嶽本氏は、吉屋と千代の間にとりかわされた熱い熱い恋文を読んだことはないんだろうか?それとも、恋文さえも「これは熱烈な同士のやりとりだ」ときめつけてしまうのかな。。。?
吉屋の時代に同性同士のすべてを超えたつながりという存在を軽視、否定したひとたち。嶽本氏は、恋愛を超えた理想の人間関係を吉屋の中に見て、それを重視しろといっている。その意見に異論はない。けれど、信子と千代の恋愛関係をまっこうから否定するその片手落ちな理論に本人自身が気づいてないことは救いがたい。。。。
信子と千代を苦しめたのは、まぎれもなく嶽本氏のような人たちなのに。
嶽本氏の解説の結びを読んで、なんと傲慢なと口をついてでました。。。
(国書刊行会・2003年4月発行)
yoshiya_yaneura
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