このローレン・ローラノシリーズは、私にとって、初めてのレズビアンが主人公のミステリー小説でした。それまで、日本のいくつかの文学や、翻訳物のロマンスやらノンフィクションやらを目にする機会はあっても、ミステリー物にビアンが主人公の話があるとは思いも寄らなかったのです。
知ってみると、実は他のジャンルと比べても比較的ビアンの警察官や探偵は目立った活躍をみせているようです。近年の女性物ミステリーブームによるところが大きいとは思いますが。。。ブーム便乗でもなんでも、数が多ければマジョリティなのですから、もう粗製濫造でもおっけーです(おい)。 みなさん、じゃんじゃんビアン物書いてください。 読んでこきおろしますわ(爆)。
(上を書いた当時(1999年ごろ)と状況は代わり、軒並みビアンミステリーは淘汰されつつあります。。。(涙)2003年初夏現在)
翻訳物ミステリーの何が楽しいかというと、とにかくその国(地方)の生活をまるで体験するかのごとく感じ取れる楽しさですね。
加えて、このシリーズで思うのはつくづくアメリカ人(というか、ニューヨーカー)の心の構造と日本人(というか、私)の心の構造が違うのだなと。。。。
時々耳にする、アメリカ人と日本人の友情の捉え方の違いを説明するときのたとえ話。
「『悩みがあるの』と日本人の友人に相談すると、本人が相談にのる。アメリカ人の友人に相談すると、良いカウンセラーの電話番号を教えてくれる」
ちょっと聞くと、日本人としては
「アメリカ人て冷たいのお。。。。」
と思うけれど、これは多分単なる責任と、その分担に関する考え方の違いらしい。
日本人は頼られたら本人が問題にあたるのを責任とし、アメリカ人はその問題を適切に解決できる手段を講じるのを責任とする。そして、その手段を得られるだけ職業の専門化が進んでいます。
日本人は解決したかどうかはそれほど問題にせず、アメリカ人は解決を最優先とする。
長々と書いたけれど、この物語のカップル、ローレンとキップも、二人の関係が危機に及んだときに出てくるのは、いつも親身になってくれる親友カップルの名前ではなく、
「カップルカウンセリングを受けましょう」
だったりする。。
彼女らが親友を信頼してないわけではなく、彼女らの抱える問題にあったprofessionを選ぶことが出来るのは、ある意味アメリカ人の裕福さを表すステイタスなのかもしれません。。
日本人とアメリカ人ほどの違いは同国人であるローレンとキップにはありませんが、それでも十分二人の考え方、感じ方は違います。
この話の中で、田舎に家を持って夏だけそこで暮らす生活をするのがフツウの人たちだと主張するキップに、ローレンが言うせりふがあります。
「そう。それじゃあそのフツウの人たちの中に、私は含まれないわ」
この話全編を貫くのは、この台詞に代表される、激しい主張のぶつかりあいです。
田舎の生活をかたくなに守ろうとする人々。対して、資本主義の波が田舎を便利にしてくれると信じる人々。その衝突に絡んだ一つの自殺騒ぎ。。。
事件に入っていくことを望むローレン、出来る限り離れていたいキップ。
さまざまなぶつかりあいが、どのように影響して変容していくのか。。。。人々を変えていくのか。。。
日に焼けるのを避けて外出さえ嫌がって、私たちのからかいの的だった大学時代の友人が、ボランティアで発展途上国に行くという話を聞き、口をあんぐりあけた私たちに、のんびり言ったひとこと。
「人って、変わるんよ」
私は、変わりたいのだろうか。。。?
scoppettone_laurano
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